「誤りでも善ければ良い」(2025年03月28日)

ライター: 言語ファイターである科学者、Lウィラルジョ
ソース: 2018年4月21日付けコンパス紙 "Jeli" 

語義格闘家の綽名をコンパス紙バハサ欄編集者からもらっているサムスディン・ブルリア
ンが2018年3月3日付コンパス紙にAgar jaga jarak amanというタイトルで寄稿した。
交通警察(あるいは運輸局か?)が自動車専用道路に取り付けた掲示板のフレーズがかれ
の気に障ったようだ。

かれ以外のドライバーもそのメッセージを目にし、即座に意図を理解している。正しくな
いフレーズではあっても、自動車専用道路の利用者は直覚的にそれを受け入れている。

しかしながら、サムスディン・ブルリアンのようなインドネシア語愛好者はその正しくな
いフレーズを改善したくなるのである。かれの改善案Jagalah jarak aman.にわれわれは
賛同する。交通警察を弁護する気はわたしにないが、わたしはこう問いたい。「自動車専
用道路に掲示されているそのフレーズは善くないのか?」

正誤は文法規則によって定まるものであるが、善し悪しは時・場所・状況・相手によって
変化する。ジャワ人は善い言葉の使い方をempan-papan(並びにunggah-ungguh)と言う。


おまけに、大衆に向けられる警告あるいは見出しや宣伝文句に使われる文やフレーズは完
全な形でなくてもかまわない。ましてや、文法にはエリプシスもあるのだ。

オランダ植民地時代にオランダ東インド電力公社ANIEMの変電ブースにはLevensgevaar
(致命的に危険)と書かれた警告が掲げられていた。そしてその警告板にはジャワ文字で
Sing ngemek mati(触ると死ぬ)という文が添えられていた。

大衆に向けられた警告としての「触ると死ぬ」は十分に理解され、たいへん効果的であっ
た。構造的に多義性を持っているとはいえ、主述構造をしているこの文は文法的にも正し
いものだった。この文は善いだろうか?どうぞ自ら格闘してみてください。


サムスディン・ブルリアンはpesastra, pefilsafat, pebahasaなどの言葉を使った。もし
わたしがこのコラムに書くとすれば、わたしはsastrawan, filsuf(あるいはfalsafawan), 
bahasawanを使うだろう。接頭辞pe-はpemirsaのように動詞に付けられる。pirsawanには
ならない。なぜならpirsaは名詞でないからだ。

petinjuとは別にpeninjuという語がある。後者はtinjuの第一シラブルが同化現象を起こ
して/t/が/n/に変化したものであり、前者は同化が起こらなかったものだ。petinjuとは
bertinjuを職業として行う者を意味し、peninjuは他人をmeninjuする者を表す。


この文が編集者をしてこのコラムにリビューと反論様式の扉を開かせるきっかけを生むこ
とをわたしは期待している。そうすることによって批判性が高まり、このコラムが民族を
賢くすることにもっと貢献するだろう。

最後にひとつ質問させていただきたい。サムスディン・ブルリアン(並びに言語格闘家の
皆さん)はオルバ期に頻繁に耳にしたmengentaskan kemiskinanというフレーズを改善す
る気があるだろうか?あるいは寛容にそのフレーズを慣用的誤表現として放置するだろう
か?