「大郵便道路(75)」(2025年04月03日)

< トゥガル Tegal >
パマリ川の河口がジャワ海に向かってウジュンブルブスの岬を作ったために今やブルブス
の町は海岸から離れてしまった。最初に作られたときは海岸沿いを走っていたと思われる
大郵便道路はブルブスを出てから11キロほど東方の海沿いの港町トゥガルに向かう。

トゥガルの町は元々、グン川が東西に分割していたが、町の中央を抜ける大郵便道路がそ
れをさらに南北に分けた。グン川の河口にできたトゥガルの港は泥の堆積が港に機能障害
をもたらし続けるから浚渫作業が欠かせない。果てしない浚渫作業を嫌ったのか、東イン
ド政庁は運河を掘り、グン川の泥に影響されないもっと西の海岸に港を移した。


トゥガルという地名の由来としてこんな話が語られている。Tegalという言葉がTeteguall
というポルトガル語から摂られたという説では。西暦1500年ごろにトゥガルの港を訪
れたトメ・ピレスがトゥガルの土地を観察し、「ここは何を植えてもよく育つ、すばらし
く肥沃な土地だ」という意味で「Teteguall!」と口走ったそうだ。パジャンに帰属する
プマラン地方にある、Teteguallという名の村が盛んな農業生産のおかげで大いに発展し
ているという話が1530年ごろの古文書に記されている。

また別説として、トゥガルの地に村を開いたキグデ スバユがその土地の肥沃さに感銘し、
農業生産を高めて村を繁栄させようと村人たちに勧めてイスラム教の唱える勤勉さを村の
規範にし、栄えるムスリムの村を作り上げた。その地を領有する王国がその村を称揚し、
キグデ スバユに地域の行政長官の役職を授けた。キグデ スバユが官位を得た1580年
4月12日がトゥガル市の創設記念日になっている。


肥沃な土地があらゆる農作物を溢れさせていたジャワ島北岸の町々は昔から、海からやっ
てきて町を襲い富や物産を掠奪する賊のターゲットになっていた。中でもトゥガルは中部
ジャワの米蔵だったから、常に襲撃のリスクにさらされていた。VOCは保護という名目
で北岸の町々に要塞を建てた。自分の支配下に置いて他者から保護するというのも保護に
は違いない。

ダンデルスの時代になってJayeng Sekarと命名された警察機構が作られ、ジャワの町々の
治安と秩序の維持のために警官が各地域に配備された。もちろん、海からやってきて町を
荒らす賊共の相手もジャヤンスカルの仕事になったはずだ。もしも手が足りなくなれば軍
隊を応援に呼んだことだろう。

ジャヤンスカルのメンバー、つまりダンデルス時代の警察官、は制服を着用し、頭にブル
ーの帽子をかぶった。装備は剣とピストルで、馬に乗って任務を遂行した。ジャヤンスカ
ルは地域行政首長の直属の部下とされたために、県や郡ではプリブミ首長の部下になった
が、レシデンあるいは副レシデン統治区の首府では西洋人がかれらのボスになった。


大郵便道路がトゥガルの町を南北に分割したあと、北部はヨーロッパ人の生活領域になっ
た。南部では華人が我が物顔にふるまって自分たちの縄張りにした。それら外来者が住ん
だエリアの外側がプリブミの居住空間になった。VOCはトゥガルを我が物にしたと感じ
たとき要塞の必要性を感じなくなって、要塞は監獄に変身させられた。

トゥガルにはオランダ植民地時代の建造物がたくさん残っている。もちろん取り壊された
ものも少なくない。1931年にアルナルンの近くに建てられたGedung Menara Airはオ
ランダ時代にWaterleidingと呼ばれていた水道施設であり、そのころからトゥガルの町に
水道が通っていたことを証明している。高さ44メートルのこの塔は今でもトゥガル市上
水道会社が使っている。一方、そのちょうど真向かいにあった保健局の建物は1990年
ごろに撤去された。

そこから東の方にトゥガルの最高行政府だったHoofdbureauがあり、その建物は現在イン
ドネシア国鉄の資産として管理されている。アルナルンから2百メートル北にあるPasar 
Pagiは元々1895年ごろに建てられた要塞だった。1994年に要塞は市場に姿を変え、
要塞の見張り塔ふたつが歴史遺産として残されている。

他にも、トゥガル鉄道駅舎やトゥガル郵便局、トゥガル市議会建物などがある。トゥガル
鉄道駅舎はスマランのタワン駅のミニチュア版だそうだ。また市議会建物は元トゥガル市
庁舎だった。[ 続く ]