「大郵便道路(76)」(2025年04月04日)

トゥガルは米蔵であり、自前の港からどこへでも船積みできたから、10世紀よりもっと
前から華人がトゥガルに住んでいたという話には信ぴょう性が感じられる。トゥガルから
ヌサンタラの各地に米が船積みされたとはいえ、その海運も賊からの襲撃のリスクを背負
っていた。ヌサンタラの海は海賊船の襲撃の盛んな地域だったのである。命知らずの海賊
たちは大砲を積んでいるヨーロッパ船をもおそれずに襲撃したそうだ。

マタラム王国のスルタンアグンがバタヴィアへの軍事進攻を行ったとき、トゥガル領主に
進攻軍の糧食の責任が負わされ、司令官に任じられたトゥガル領主は船を建造してバタヴ
ィアに大量の米を運んだ。バタヴィア城市の外に設けられた進攻軍の司令部から手の届く
場所に糧食の倉庫が建てられた。

結局バタヴィア進攻は失敗に終わり、VOCはジャワ海の制海権を握って北海岸部の町々
に支配の手を伸ばし始める。建国の発端から内陸部に腰を据えていたマタラム王国は支配
下にあった北海岸部がVOCに奪われていくのを、あまり物惜しみしないで眺めていたよ
うだ。ジャワ島海岸部でジャワ人が行っていた海洋活動はVOCに抑え込まれ、おまけに
ジャワの王国が海洋活動者たちを内陸に引っ張り、海洋活動の価値観を劣位に位置付けた
ために、ジャワ島北岸で行われていた海洋活動の主導権をVOCは非ジャワ人や華人を使
って容易に手に入れることができた。

インドネシア共和国独立宣言からほどなく、共和国の軍隊である人民保安軍が作られて港
々には海軍ができた。トゥガル港は第4海軍基地に指定され、海に生きる地元の青壮年た
ちが部隊を編成した。その中にCorps Meriniersが設けられていたのである。インドネシ
ア海軍海兵隊の草分けは1945年11月15日にトゥガルで誕生したその部隊だった。
また、海軍アカデミーが1946年5月12日からトゥガルで開校し、後にスラバヤに移
された。


1945年10月8日、中部ジャワ北岸部で政治体制を覆そうとする革命が起こった。ト
ゥガル・プカロガン・ブルブスにGerakan Tiga Daerah(三地方運動)と称する運動組織
が出現したのだ。

マタラムスルタン国がジャワ島統一を推進してジャワ島西部地方とジャワ島東端部などを
除くほぼ全土を支配下に置いたとき、ジャワ島北岸地域にはスルタン家の血族が領主とし
て赴任した。上の三地方はスラカルタやヨグヤカルタの王家の血を引くマタラム貴族が領
主になったのである。オランダ植民地体制下では、それら領主は言うまでもなくオランダ
東インド政庁の統治行政構造における県令の役職に就いていた。

1942年にやってきた日本軍もオランダ植民地行政機構の基本形態を引き継いだから、
州長官がオランダ人から日本人に代わっただけで、県令はそのままマタラム貴族が居座っ
ていた。

共和国独立が宣言されたとき、マタラム貴族はもういらない、という思いが民衆の心に芽
生えたのも当然のことだった。それはスカルノが言う独立革命と軌を一つにするものでも
あったのだ。独立を宣言したインドネシア共和国で封建領主が地方首長になることは相応
しくないと三地方の急進派民衆が反対し、貴族を追放して一般人の行政首長を持つことを
要求した。

日本軍に媚びを売って奴隷キャンプに地元民を送り込んだと言って急進派に率いられた民
衆は県令の罪を非難した。これは多分、ロームシャ徴用のことを言っているようにわたし
には感じられる。

プカロガンの新県令になったサルジヨがこの運動の震源地だったようだ。その震動は地元
の有力者クティル、カー・ミジョヨ、スキルマン工学士らに伝わって行った。スキルマン
は地元のインドネシア共産党指導者だった。

老齢の貴族県令は拉致され、裸にされて監獄に投げ込まれた。県令の腹心官吏や警官も拉
致され、トゥガルのタラン橋で虐殺された。不穏な空気がブルブスの街中に流れ、人種暴
動が発火点に達して華人への襲撃がはじまった。この暴動についてもさまざまな話が語ら
れていて、クティルが日本軍政の行政構造を覆すためにプリブミの主権奪取を始めたのが
発端というような説もある。わたしが上で書いた話も諸説紛々のひとつにすぎない。
[ 続く ]