「ソロのバティッ(1)」(2025年04月08日)

インドネシアのbatikの産地と言えばまずプカロ~ガンの名前が登場する。今ではプカロ
~ガン、クドゥス、バニュワギ、マドゥラが著名な産地になっているが、バティッの伝統
文化という見地から言うとソロやチルボンの名前が必ず出てくる。プカロ~ガンがインド
ネシア最大のバティッ生産地になったのも、元はと言えばソロがその根源をもたらしたの
だ。

ソロのバティッが文化的な発展を見せたのはSurakarta王国時代のパクブウォノ3世がそ
れをバックアップしたことによる。かれの在位は1749〜1788年だった。王は王宮
内のみならず王宮の外の領民にもバティッ作りを勧めたので、ソロ一円でまずバティッ生
産が高まり、19世紀にはその技術が中部ジャワ一帯にまで広まった。

Surakartaのインドネシア語発音はスラカルタだが、ジャワ語発音はスロカルトと聞こえ
る。元々は、スコハルジョ県のカルトスロにあった王都を移転させた先がソロ村であり、
ソロ村に開いた王国の名前がスロカルトだったわけで、スロカルトは地名でなくて王国名
だったのだ。

インドネシア共和国が国内の全地方行政を掌握したとき、スラカルタ特別州がその王国領
の公式名称にされた。王国名が地方行政における公式な地名になったと言える。現在の公
式名称はスラカルタ市であり、ソロ市とも呼ばれているがソロは愛称と位置付けられてい
る。


ジャワ島でのバティッ作りそのものの歴史はスロカルト王国時代よりはるかに古い。特徴
的なモチーフをバティッ技法で描いた布で作られた衣服を着ることは、1042年から1
222年まで続いたクディリ王国の時代に既に行われていた。

1197年ごろ建てられたチャンディプナタランにあるガネシャ像はマンダラのシンボル
と同形のモチーフが描かれた布をまとった姿で作られており、それは9世紀に建造された
チャンディプランバナンの彫像から模写されたものだという説も出されている。

バティッはインドから伝来したものというのが通説になっているとはいえ、歴史家の中に
は、バティッはインドから伝わったものでなくてヌサンタラに発祥したものであり、イン
ド文化の影響を受けたことは確かだが、根幹の部分がインドに由来したのではないと主張
するひともいる。ヌサンタラにインド文明が渡来する前からインドネシア人の祖先はバテ
ィッ作りの技術をマスターしていたとオランダ人考古学者J.L.A.ブランデスは述べて
いる。

そういった太古の時代からこの製造技術の名称であるバティッという言葉が使われていた
かどうかについても、単純に通り過ぎることのできない問題だ。現代人がしばしば陥る落
とし穴のひとつに、その言葉が出現した時にその物品や物事が出現したと思い込むミスが
ある。

たとえばジャガイモだ。ジャガタラ芋という名称はオランダ人と結びつけられて当然に思
われるものの、オランダ人より前に日本にやってきたポルトガル人もジャガ芋を船に積ん
でいた。ポルトガル人はマカオでジャガ芋を栽培し、かれらの常用食材にしていたようだ。
だから平戸のポルトガル商館の台所にジャガ芋が置かれていなかったとは考えにくいよう
にわたしには思われるのである。

その製造技術あるいは製品がbatikという名前で呼ばれるようになったのはマタラム王国
を1613年から1645年まで統治したスルタンアグンの時代だったと主張するイ_ア
人研究者もいる。


ヘレッ・ピーテル・ルフェール(1860-1928)は1738〜1740年に書かれたババッサ
ンカラの書の中に名詞batikと動詞ambatikが使われていることを見出している。しかし研
究者によれば、ジャワ語にngembatという言葉はなく、スンダ語にそれがあって「直進す
る」を意味し、ブタウィ語では「取り上げたり盗むこと」を意味しているそうだ。

その点を考慮に入れるなら、batikの語義は元々「書いたり描いたりすること」の雰囲気
が強く感じられ、布にチャンティンで線を引く行為を指す言葉だったのではないかとその
研究者は推測している。[ 続く ]