「大郵便道路(78)」(2025年04月08日)

< プカロガン Pekalongan >
トゥガルの町を離れた大郵便道路はしばらく海岸沿いを走り、プマランの町を過ぎると海
岸線から離れていく。この現象は中部ジャワ州の大河のひとつチョマル川が作ったチョマ
ル岬が陸地を北に伸ばしていったからだ。それがなければトゥガルからプカロガンまでの
60キロ区間は平坦な海岸線のまま現在に至ったのではないかと思われる。

道路建設の際にプカロガンの手前の湿地帯に道路を通したため、マラリアの巣窟で働かさ
れたたくさんの作業者が犠牲になったという話が語られている。これもまたラフルズ時代
にイギリス人が行った調査報告の数字がインドネシアの正史に記載されており、ダンデル
スは強制徴用した現地民のうちの4千人をそこで死に追いやったことになっている。


プカロガンもかつては港町だった。この港の性質は、昔は商港だったが独立後は漁港のほ
うが優勢になった。プカロガンの地名の由来として漁師に関連付けられた説がある。しか
し世の中のひとびとはPekalonganという言葉に接すると、果実を食べるオオコウモリを指
すkalongを連想するのである。

この町とオオコウモリがどういう関係にあったのかよく分からないものの、カロンという
言葉から世人がみんなオオコウモリを連想するために、昔のプカロガン市庁はオオコウモ
リを町のペットにしたのだろう。15年前には、国道1号線が西からプカロガン市に入っ
て行く時に通過する橋に巨大なコウモリの像が建っていたが、今グーグルアースで調べて
も見当たらない。

しかしジャワ人文学者によれば、プカロガンのカロンは動物でなくて場所を意味する言葉
であり、漁師たちは漁場のことをカロンと言っていたとのことだ。同じ語法は肥沃な農地
にも使われ、プカロガンの土地の豊饒さをそれが表していたというのがこの説である。

たしかに植民地時代には、19世紀に入ってからプカロガンレシデン統治区に17の製糖
工場が作られた。製糖工場は自前のサトウキビ農園を持つのが普通の経営手法であり、プ
カロガン地方には農園が広がったのである。

1743年、マタラム王国の領地になっているジャワ島北海岸部をパスルアンまでパクブ
ウォノ2世がVOCに譲渡したため、プカロガンはVOCの支配下に置かれるようになっ
た。プカロガンではそのころからバティッ生産が行われており、VOCは商館を建ててバ
ティッを独占販売した。いま、プカロガンはインドネシア最大のバティッ生産地になって
いる。プカロガンの町中を通り抜けるとき必然的に、あちこちに建てられているバティッ
センターの看板がわたしの目についた。

また瀟洒な大型のローカルホテルも町中にたくさんあって、その多さが不思議の念をわた
しの心中に招き寄せた。プカロガンに買い付けに来る商人やバティッショッピング観光客
がそれらのホテルを繁盛させているという話を耳にしたとき、わたしの不思議の念は解消
したのである。プカロガンのローストダックも一時期全国的に有名になったが、人気が落
ちるとプカロガンのローストダックは市場から姿を消して世間から忘れられた。


市内には1945年10月3日記念碑が建てられている。その公式名称はプカロガン闘争
記念碑Monumen Juang Pekalonganだ。プカロガンの民衆と日本軍が戦闘したのだ。

日本軍政統治機構からプカロガンの市政をプリブミの手に移譲するための協議をプリブミ
側が申し入れたが、日本側はその申し入れに対して実行を延び延びにしたそうだ。

最終的に10月3日に協議を行うことで合意され、プカロガン市内の憲兵隊本部で会談が
行われた。行政の移譲というのは警察や軍隊も交代するという意味であり、日本軍の武器
兵器がプリブミ側に渡されることもその中に意図されていた。

憲兵隊本部には刃物や竹槍を持った地元民が大勢やってきて会談が行われている建物を取
り囲んだ。すると突然、建物を包囲している群衆に向けて町中から日本軍部隊が機関銃と
小銃で銃撃を浴びせた。その攻撃によって35人の地元民が死亡した。プリブミ側はそれ
を日本側の卑劣な罠だと解釈した。

地元民と日本軍の間で戦闘が始まり、交戦状態が10月5日まで続いた。まるでスマラン
の5日間戦闘を先取りしたようなことがほんの85キロ離れた場所でわずか半月ほどの差
で起こったと言える。この戦闘は共和国軍司令官スディルマン将軍が調停に入り、全日本
軍は10月7日にプカロガンからプルウォクルトに移動してプカロガンの町を明け渡した。
インドネシア語情報にはその記念碑の由緒がそのように記されている。[ 続く ]