「大郵便道路(79)」(2025年04月09日)

さて、国道1号線を走るわたしは、プカロガンでまたもトゥガルと同じような体験をした
のである。西からやってきた国道1号線は上述の闘争記念碑のある公園でその周囲を回っ
て南下し、1.3キロほど走ってから出会う大きい十字路を左折して東に向かうのだ。

地図を見ると、この1号線の順路は大郵便道路と異なるルートのようにわたしには思われ
る。というのも、西から来た道路がそのまままっすぐ東へ進み続ければ、プカロガンのア
ルナルンの北側に出るからだ。アルナルンは町のセンターであり、最高行政府、大モスク、
大パサルなどがその周辺に設けられるのが習慣になっている。大郵便道路を往来する郵便
馬車が最高行政府に立ち寄らなければ、郵便の役目が果たせなくなるだろう。

こうして見ると、あちらこちらの町の中では国道1号線と大郵便道路がオーバーラップし
ているとは言えそうにないようだ。国道1号線=パントゥラ≒大郵便道路というのは町と
町を結ぶ街道についての話に限定しなければならないのかもしれない。


プカロガンの名物もいろいろあるようだが、プカロガンがヌサンタラで珍しい自転車の町
になった。市民がみんな自転車に乗るという社会現象はインドネシアで稀なものだ。19
80年代に始まったと言われているこの現象は残念なことに最盛期に比べて低下したよう
だが、ちょっとその辺へ行くとき市民の多くは自転車をまだ使っているそうだ。インドネ
シアの他の町では、ちょっとその辺の数十メートルしか離れていないコンビニへ行くとき
でもオートバイのエンジンがうなりをあげている。

プカロガンを自転車の町にしたのは、日本製婦人用自転車だったのである。なぜ日本製の
女性用自転車がプカロガン市民を魅了したかと言うと、フレームのトップチューブが斜め
になっているために、サルン姿の男性にたいへんメリットがあり、またハンドルの前に付
いている買い物かごもお母さんたちが大きいメリットを感じたそうだ。

インドネシアでは、金曜日になるとサルン姿に丸めた礼拝用カーペットを手にした男性た
ちがモスクへ行く。オートバイで行くひとが多いようだが、スクータを使うならまだしも
普通のオートバイにまたがったりするから、サルンの裾が巻き込まれる事故がときどき起
こっているそうだ。


1980年代のインドネシアで、オートバイはまだまだ高額商品だった。国民のひとりに
1台という感覚は2000年代後半から始まった。年々6百万台7百万台という数が国内
で売れるようになったのは2008年ごろからだ。

オートバイが普及する前の時代に、プカロガンに日本製中古自転車が入って来たのである。
そのはじまりは、バティッをジャカルタへ売りに行った商人たちが自転車をプカロガンに
持ち帰ったのが事始めだったと言われている。かれらはタンジュンプリオッ港で船員が持
ち込んだ中古自転車を買った。世の中で売られている自転車の相場よりだいぶ安く買えた
から、自分が使うために買った。

その日本製の婦人用中古自転車はインドネシアで一般に使われているものより一回り小さ
く、インドネシア人の体格に合っていた。フレームのトップチューブがサドルの位置より
低く、そして買い物かごが付いている。その珍しいスタイルをプカロガンのひとびとはジ
ェンキと呼んだ。sepeda jengkiという名前が日本製婦人用自転車に与えられたのだ。
[ 続く ]