「大郵便道路(80)」(2025年04月10日)

ジェンキという言葉は英語のヤンキーがインドネシア語化されたものというのが定説にな
っている。日本語でヤンキーが不良青少年を指す俗語になったように、インドネシアでは
世の中の一般常識からちょっと外れたものごとをヤンキーと呼ぶ使い方が行われた。日本
製婦人用自転車のかっこうがインドネシア人にとってはヤンキーだったのだ。

1950〜60年代にかけて、建築物の外形を歪めて設計する建築様式がインドネシアに
起こった。アンバランスな印象を与えるその建築様式がジェンキ様式と呼ばれた。ジャカ
ルタのクバヨランバル住宅地区へ行くと、ジェンキ様式で建てられた普通の住宅を目にす
ることができる。

ヤンキーという英語をインドネシア人はイェンキーと発音するはずだが、YがどうしてJ
に変化したのかについては、ひょっとしたらインドネシア語正書法に関係していたのかも
しれない。Jの文字はオランダ語でヤイユイェヨの発音になる。1901年以来のオパイ
ゼン綴りはオランダ語式でインドネシア語の音を表記するようになっていた。ヤイユイェ
ヨの音をYで表記するようになるのは1967年9月19日からであり、それまでイェン
キーという音の正書法表記はjengkiだったはずだ。

しかし、もしそうであれば昔はイェンキーと発音していたのがどうしてジェンキーに代わ
ったのかという疑問が生じる。これではヨグヤカルタがジョグジャカルタになったのとま
るで同じではないか。


バティッ商人たちが持ち帰った自転車が知人や隣人を魅了した。かれらはジャカルタへ商
売に行く商人に「買ってきてくれ」と依頼した。ひとりで5台の自転車を持ち帰った商人
もあったそうだ。プカロガンの町中にジェンキ自転車が増加した。乗りやすいし壊れにく
くて長持ちする。この町の中で自転車の需要が高まった。

「だったら日本から輸入すればいい」と考える人間が必ず出る。1985年に市内の4軒
の自転車販売店が共同でタンジュンプリオッの輸入業者に輸入注文を出した。毎月コンテ
ナ1本自転車4百台の輸入が行われるようになった。ギアチェンジシステム、発電機とラ
イト、ゴムチェーン、ファイバースポークなどのアイデアにひとびとは目を瞠った。ミヤ
タ、ブリジストン、ナショナル、シャムロック、ウオーカー、レヴァンティなどのブラン
ドが街中にあふれるようになった。

プカロガンが自転車の町になった姿は、東隣のバタンの町とプカロガンをつなぐスルニ通
りを見ればわかる。朝6〜7時には学生の集団が走り、8〜9時には工場労働者や商店の
店員の波がほとんど切れ目なしに走る。しかもみんながジェンキ自転車に乗っている。男
女の学生たちが乗っている自転車の買い物かごには、バッグや本・文房具などが入ってい
る。午後や夕方になると、逆方向に自転車の集団が走るのである。

他の町では、自転車に乗る学生は貧しくてオートバイを買えない家の子供であり、オート
バイに乗らないと恥ずかしいから買ってくれと親に駄々をこねるのが普通だ。しかしプカ
ロガン第7中学校長はそれを否定した。生徒の中にはバティッ事業主の家庭もあるが、み
んな自転車で通学している。生徒の9割が自転車通学している。家から学校まで4〜5キ
ロ離れていても、自転車でやってくる。

プカロガン港の表にもジェンキ自転車があふれていた。漁師は男が普通だが、女性用を気
にする者はいない。新鮮な魚を買い物かごに載せて港から出てくる男もいた。
2010年を過ぎるころでも、プカロガンの市内では自転車族が大勢徘徊していた。商店
街地区では自転車があふれていたのをわたしは目にしている。雨が降れば片手で傘を差し
て走る者もいるそうだ。[ 続く ]