「ソロのバティッ(3)」(2025年04月10日) スラカルタ市クレウェル市場の午前7時。ドクトルラジマン通りの東端にあってスラカル タ王宮に隣接しているインドネシア最大の繊維製品伝統市場であるこの建物の内部の隅々 にまで日光が差し込み始めたころ、巨大な市場が目を覚ます。その日の商売が始まるのだ。 ちなみに、インドネシア最大のモダン繊維製品市場はジャカルタのタナアバンだ。言うま でもなく、タナアバン市場の規模がインドネシア最大である。 2千人を超える売場の主たちの9割が女性で占められているこの市場に早朝からやってき て売場を開くひとはそうたくさんはいないが、それでもちらほらと売場が開かれていく。 売場の中に山をなして置かれているキャリコ布の匂いがほのかに漂ってくる。 ティティという愛称で呼ばれているヌラッナワティさん32歳が売場を開いたのは午前1 0時だった。「ここへ来る前にふたりの子供の世話をしなきゃいけないから。」と言いな がら、かの女は売場をふさいでいる木の板をはずす。 ティティの一日は午前4時ごろに始まる。スブの礼拝をしてから朝食を作り、子供を起こ す。小学一年生の長女を学校へ送り出すための世話をしたあと、二人目の幼女に朝食を食 べさせる。9時ごろそれらの用事を終えた後でやっとマンディができる。家から3百メー トルくらいしか離れていないクレウェル市場への通勤はたいして時間がかからない。 ティティがクレウェル市場で商売するようになったのは、1998年に父が病気になり、 母がその看護をしなければならなくなったからだ。母が毎日通っていた売場のピンチヒッ ターにティティは立つことになった。そのとき、ティティはもう秘書の仕事を何年も続け ていたのだ。かの女は短大卒なのである。インドネシアでは、家業を営んでいる家の子供 は誰かがそれを継ぐことが美徳とされている。2003年に父親が亡くなり、そして母が 乳がんの宣告を受けた。これは2003年のコンパス紙記事だ。 ティティにとって商売は決して新しい世界ではない。子供のころから、ティティが学校か ら帰宅すると母は売場で手伝いをさせた。在庫していない商品を売場に来た客が求めると、 母はティティにそれを取りに行かせた。ティティは商品に詳しくなった。5人の子供たち の中で商売の才能があるのはティティだけだった。 母の売場を引き継いで商売を始めてから、ティティは自分の商売ネットワークを作ること に力を注いだ。収入になることなら何でもした。自分の商品を自分の知り合いに誰彼かま わず勧めた。母の顧客を自分の顧客にしようとしなかったから、母の古い商売相手がティ ティに商品を持ってきたときもその相手は病気の母に会いに行かなければならなかった。 そのとき母の商売相手はバティッの描かれたキャリコ布を持ってきた。売場にいるティテ ィに渡そうとしたが、ティティは受け取らない。「母はまだ生きてるんですよ。わたしが 母の仕事を取るわけにはいきません。」 ティティの売場では、白いままのキャリコ布・長いバティッ布・バティッ服・バティッ道 具類などが販売されている。白いキャリコ布は家で使用人に長さ2.5メートルと2.7 メートルに切断させたものだ。 16時になるとティティは売場を閉めて帰宅する。ティティは自分が市場で商売している 間、雇っている家政婦に家の雑事と子供の世話をさせている。帰宅するとその家政婦と交 代して主婦になる。次女に夕食を食べさせながら近くを散歩し、19時ごろに長女の学校 の宿題を見てやり、20時ごろやっと子供の世話から解放される。テレビを見ながら昼間 使用人がカットしたキャリコ布をチェックする。そして21時にこの三人の母子は就寝す るのである。 ティティの夫、ハディ・プルノモさんはソロの隣のボヨラリの町で書籍文房具店を営んで いる。自動車でおよそ1時間くらいの距離だ。家に帰ってくるのは週に一二回。商品の仕 入れのため、もしくは店を休みにするときだけ。夫の店は夫の親からティティが買い取っ たものだ。夫はジャカルタへ働きに出ることを望んでいた。しかしティティはそれに反対 した。ティティは夫に商売のやり方を教えて、近くで暮らすようにさせた。 「親が事業を持っていれば、その事業は続けられるべきです。なんでジャカルタへ仕事を 探しに行かなきゃいけないの?わたしはソロの方が好き。わたしはソロにいてお金を稼ぎ ます。」 家庭の生計はティティがすべてまかなっている。夫に生活費を求めたことはない。「夫は せいぜい子供たちに何かを買ってあげるか、あるいは家に必要な器具道具などを買うくら いです。大事なのは、わたしたち夫婦が理解し合っていることなんです。」 [ 続く ]