「大郵便道路(82)」(2025年04月14日) < バタン Batang 〜 ウレリ Weleri > プカロガンの町と隣のバタンの町はほとんどくっついているような印象を受ける。昔は8 キロほど離れていたのだろう。国道1号線を西から来ようが東から来ようが、一方の町に 入って走り続けると、もうひとつの町にいつの間にか入っている。学生や勤め人がバタン に住んでプカロガンに通うという話だから、地理的要素がおのずと広域地方都市を作った のかもしれない。 現代のバタンは人口稠密で、手工業が盛んな町だ。プカロガンと密接な関係の中にいるか ら、バティッやプリント綿布の産業が顕著だそうだ。 バタンを離れると、国道1号線は山中に入って行く。ジャカルタから国道1号線を走って そこへ来るまでの間、山道(と言うより高原道路)の雰囲気はチルボン市のバイパスであ るパリカンチ自動車専用道で体験を味わっただけだから、バタンを出てから上り坂の山道 にさしかかるとちょっとしたワクワク感を覚える。 ディエン高原の北にそびえる双子火山のシンドロ-スンビン山系が北に向かって張り出し た結果スリグヌン高原ができあがった。海岸線の近くまで東西およそ20キロにわたって この高地が横たわっており、国道1号線は高地の南寄りの高所を通過するのである。 高原の東端の急坂が世に名高い難所Alas Robanだ。その傾斜はプンチャッ街道の比ではな く、そこを登っていくときはいつも停車が起こらないことを念じてアクセルを踏んだもの だ。幸いなことに、登攀途中の停車は一度も起こらなかった。 全長およそ1.5キロのアラスロバンの急坂は大型車両が通行できるようなものでないた め、今はバストラック用のバイパスが南側に作られている。その急坂を19世紀に馬車が ほんとうに通ったのだろうか?そんなわたしの疑問にプラムディヤ・アナンタ・トゥルが 答えをくれた。かれはこう書いている。 大郵便道路はバタンを出てから40キロ東方のウレリの町に向かう。ウレリはタバコ葉・ 稲・コーヒー・カポック綿・砂糖の産地だった。ウレリ領内には製糖工場がふたつ作られ た。「ウレリの町の手前10キロの辺りから大郵便道路は海岸線から離れて行く。」 どうやら、大郵便道路はバタンを出ると海岸沿いを進んでスリグヌン高原の北側を通り、 高原のはずれまで来てから南東にあるウレリの町を目指したようだ。やはり郵便馬車はア ラスロバンを通らなかったのだ。いやそればかりか、大郵便道路と国道1号線はもっと先 までオーバーラップしていない。 国道1号線はアラスロバンの急坂を降りきると緩い下り道になり、道の両側に食堂やコン ビニ、ワルンなどが2キロほどびっしりと並ぶ飲食街になる。インドネシアの観光地でし ばしば目にする光景だ。そこを抜けると国道1号線はクンダルに向かって進むのである。 というのも、国道1号線はウレリの町に入らないからだ。つまりウレリの町のバイパスが 国道1号線になっているということなのだ。 一方地図を見ると、北西から下って来た道路が国道1号線と交差したあと、ウレリの町中 を通過してから国道1号線に合流する。大郵便道路はそちらの道だったように思われる。 だからこれも大郵便道路≠国道1号線=パントゥラの一例ということになるだろう。 [ 続く ]