「ソロのバティッ(6)」(2025年04月15日) スラカルタ市南西部の広いエリアを占めているラウェヤン郡の南部に総面積24Haのラウ ェヤン町がある。ソロバティッの歴史が刻み込まれているラウェヤン町一帯は古くからの 人間の居住地域だった。町の南部にはカバナラン川が流れており、この川は大河ブ~ガワ ンソロにつながっていたから、河川交通の盛んだった遠い昔から小舟やいかだで川を上下 するひとびとが上陸する船着き場ができていた。 人間が集散するそのような場所には市が立つのが普通であり、特に近隣で何かの生産活動 が行われて商品が作られていれば、商取引の場ができないほうがおかしかった。 ジャワ語laweは糸を意味している。カバナラン川沿いの、糸がたくさん作られている土地 がlaweanと呼ばれた。現代の地名Laweyanの語源がそれだろうと考えられている。16世 紀ごろには、その土地が綿糸綿布の産地になっていた。ラウェヤンの商人が生産品をブガ ワンソロ岸のヌスパンの港に運んで取引した。綿糸綿布の需要を持つ商人もラウェヤンに やってきた。 モジョパヒッ王国の大王ブラウィジョヨ5世の子孫であるキアグン へニスがラウェヤン に住み着いて綿糸綿布生産者にバティッ作りを教えた。かれはモジョパヒッ王宮でバティ ッの製法に親しんでいたのだ。1546年からラウェヤンでバティッ生産が始まった。 このキアグン へニスの子孫が1586年にイスラムマタラム王国を建国したスタウィジ ョヨ、別名パヌンバハン セノパティだ。 糸を作りそれで布を織って販売するよりもはるかに高い付加価値が付くバティッ布の生産 に住民が仕事をシフトさせるのも時間の問題だったようだ。カバナラン川の北側にある集 落が糸と布の生産センターからバティッ生産センターに変化した。作られたバティッを洗 うのに川が利用され、岸辺で長い布が天日干しされた。 パジャンのスルタンはラウェヤン村にperdikanの地位を与えた。プルディカンとは王宮が 納税を免除した部落や村を指している。それが原因でその土地のコミュニティ統制に王国 行政機構があまり干渉しない傾向が生じたために、プルディカン部落や村は他の土地に比 べて自治的性格を多めに帯びるようになった。 王がプルディカンのステータスを与える場合は、その土地にある聖所や遺跡を世話させた り、珍しい特産品を王宮に貢納させることと引き換えになされるケースが普通だった。パ ジャン王宮はラウェヤン部落に対して租税の代わりに何を求めたのだろうか?それともキ アグン へニスへの配慮だったのだろうか。 歳月の経過とともにラウェヤンのバティッ生産は勢いを増し、オランダ時代に既に繁栄す る産業センターの様相を呈するようになった。ラウェヤンのバティッ商人は一日8百フル デンの収入を得る機会がザラにあったそうだ。当時のブパティ(県令)の月給は1千フル デンだった。 というのも、カススナン王宮で上流貴族たちが手描きバティッの衣服を着るのを好んだこ とや、1930年代にスタンプ方式のバティッ生産が開始されてバティッの衣服が庶民化 し、オランダ東インド政庁がジャワ人女性の公式衣装にバティッを指定したことなどの要 因がバティッ需要を作り出していたからだ。 時代は徐々に河川交通から道路交通に移行していき、それと歩調を合わせるかのようにカ バナラン川は自然が設けたバティッ生産施設の座から転落した。バティッ生産者は居住地 区の中に設けた生産作業場の近くに井戸を掘って水を得るようになり、天日干しも作業場 の近くの建物に屋上を設けてそこで行うようになった。この生産プロセスにおける変化が ラウェヤンの地域住民にクラスター志向をもたらした。 1900年代初期にバティッ黄金期が訪れると、繁栄するラウェヤンの上流商人たちは高 さ3〜5メートルの塀で自邸を囲いこみ、その中に宮殿もどきの邸宅とバティッ生産の作 業場を設けた。自己完結的なかれらのビジネスと私生活が外部者の目から隠されたのだ。 そんなクラスターがラウェヤンの町を埋めたのである。 宮殿もどきの邸宅はバティッ事業主のソーシャルステータスシンボルだった。ジャワ人の 人生観にある成功者の資格のひとつがそれだ。高い位階・多くの財産・威厳のあるステー タスがジャワ人成功者の条件だった。それらを持つことで出自が平民である商人が王宮の 貴族階層と肩を並べることができた。 刻苦勉励・倹約・規律正しい日々の営みが財産とステータスをわが身にもたらす。他人の 顔色を窺い、命令に服し、自尊心を地面に投げ捨てて生きるような暮らしから、成功者と しての名声と評価が自分の価値を取り戻してくれるのである。[ 続く ]