「ソロのバティッ(7)」(2025年04月16日)

そんな邸宅のサンプルのひとつがドクトルラジマン通りにあるRoemahkoe Heritage Hotel
だ。1938年に建てられたそのジャワ様式の建物はバティッ商人プスポスマルトの屋敷
だったものであり、このホテルにお泊まりになるなら、jangan bening(透明野菜スープ)
やlodoh pindang(王宮料理のひとつ)を食べ、congklak(伝統式対戦ゲームのひとつ)
で遊ぶことをお忘れなく、とホテルオーナーが語っている。

ホテル内にある家具類の中には、プスポスマルトの一家が使っていたものも混じっている。
そのひとつがambenやbalai-balai(カウチと言うより縁台に近い)と呼ばれるもので、ひ
とが座ったりねそべったりできる大きいサイズの家具だ。バティッ商人たちは毎日大量の
金銭を扱った。かれらが金銭を日々数えるとき、いつもそんな縁台が使われた。デスクや
テーブルの上に置ききれなかったためだそうだ。

かれら大金持ち商人たちはダイヤモンドを購入して家の中に隠した。自宅のどこかの部屋
のタイルをはがして穴を掘り、そこにしまって上にタイルをかぶせる。あるいは空き缶に
ダイヤモンドを入れて上からバティッ生産に使う溶けたロウをかぶせ、ロウが固まってか
ら家の中の井戸に沈めるのだ。


ルマクヘリテッジホテルから250メートルほど西で、やはりドクトルラジマン通りに面
している邸宅も、チョクロスマルトというラウェヤンバティッ商人の屋敷だった。そこは
いま、nDalem Tjokrosoemartan SASANA PAWIWAHANという名前の貸しホールとして使われ
ている。nDalemというのは家族が住む空間を意味している。

昔のお屋敷のコンセプトによれば、家屋の表の部分は客人や外部者と接触する場であるた
め公共空間との接点の役割を果たし、そこは当主の活動の場になっていた。表の半公共空
間にはPendopoが設けられた。プンドポ(吹き抜けの広間)は大勢の人間が集まって何か
をする空間として利用された。

一方家族は家の奥で暮らすものであり、中でも女は奥で暮らすのが常識であって家の表部
分に出てくるのは特別な用事の時だけに限られていた。家族が居住に使う邸宅内中央部の
空間がnDalemと呼ばれた。プンドポとンダルムの間にたいていpringgitanがある。プリン
ギタンはringgitつまりワヤンクリを演じるためのステージだ。

1915年に建設されたチョクロスマルトの邸宅は5千平米の土地に1千8百平米の家屋
が建てられている。ここもかつては閉鎖的クラスターを形成していたのだ。チョクロスマ
ルトが大成功者であったことをその建物が示している。


チョクロスマルトは輸出事業に力を注いだ。かれが輸出するとき、商品はバティッばかり
でなく農産物や手工芸品なども併せて大量に船に積んだ。スマランやチルボンの港へ輸出
商品を送るために、かれは列車をチャーターした。列車は時に50両もの長さに達するこ
ともあった。

チョクロスマルトの輸出事業の成功は商業組合Serikat Dagang Islamを1905年に興し
たキアイハジ サマンフディの支援の賜物だった。サマンフディが民族独立活動家への資
金援助を始めたとき、チョクロスマルトもその同志になった。スカルノ、ハッタ、ガトッ
スブロトたち独立運動の闘士がチョクロスマルトのその家を訪問したときの写真が今も遺
されている。援助資金を活動家に持たせて帰らせるとき、チョクロスマルトは自分からの
ものと他の同志たちから集めた宝石貴金属をパンの空き缶に入れて渡したそうだ。

インドネシア共和国政府が1946年10月30日に史上はじめて発行したORIと呼ば
れるルピア通貨を擁護することにまでチョクロスマルトは尽力した。


それらの例に見られるジャワ様式で建てられた豪壮な邸宅が、ラウェヤン商人成功者が示
すプライドだった。20世紀に入ってから建てられた邸宅はオランダ人社会の栄華を示す
アールデコ調や中華風の要素を外装に反映させたものが少なくない。家の表通りから眺め
たかぎりでは、高い塀に邪魔されてありふれた質素な建物のような印象しか感じられない
にもかかわらず、表門から中に入るとその豪壮さに打たれてウワッという感興が湧きおこ
るのである。成功したラウェヤン商人のプライドは贅沢な住環境での暮らしの中にきらめ
いていた。

ラウェヤン町のそれらの邸宅の間には庶民の質素な家が連なっている。そんな庶民の家の
多くも、バティッ生産を先祖代々行っていたひとびとが住んでいる。そのような家も規模
は小さいながら、居住のための家屋とバティッ作業所、倉庫、店あるいは取引場所などが
その地所の中に作られていた。[ 続く ]