「ソロのバティッ(8)」(2025年04月17日)

ラウェヤンにはかつてキヤイハジ サマンフディ(1868-1956)という名の人物が住んでいた。
ラウェヤンでトップクラスのバティッ商人であり、かれは商業組合スリカッダガンイスラ
ムの発起人になった。後にサリカッイスラムに変貌して政治運動にのめりこんでいった組
織の前身だ。サマンフディが扱うバティッはたくさんの都市で販売された。

「曾祖父のバティッ販売はイスラム宣教のためでした。」サマンフディのひ孫の一人、ユ
ユン・ダマヤンティ・アッモウィジョヨさんはそう語る。スラカルタ市ラウェヤン町ティ
ガヌグリ通りの大きな邸宅はサマンフディの自宅だった。

百年以上昔の新聞広告の切り抜きをユユンはインタビューの記者に示した。1910年4
月2日付けの新聞Medan Prijaji BataviaのAdvertentie欄にFabriek Kain Batik H Moh 
Samanhoedi Laweyan Soloが出した広告だ。
Batik Samanhoedi Djoega boleh dapet beli di tokonja: Sech Ali Makarim, Solo: M. 
Ardjowikoro Pabean, Soerabaia; Handel Mg Ha Hien Guan, Baitenzorg; Poe Hoe Kongsi 
Betawi, dan M Kartohastro, Ponorogo...


サマンフディのバティッ事業は1950年代に製造所で起きた大火事のために斜陽になっ
た。サマンフディの一家はよく船で遠方へ旅行していたため、大火事と共に家財道具の多
くが家から姿を消したことを帰宅するまで知らなかった。

そのあと、サマンフディはティガヌグリ通りのもっと小さい家に引っ越し、そのあとクラ
テンへ移り、最後にスコハルジョのバナランで逝去した。1915年に建てられた、ティ
ガヌグリ通りのその家はユユンが管理しており、近い将来貸家にする予定だそうだ。この
家の中にバティッに関わるサマンフディの遺物は何ひとつ置かれていない。

サマンフディから数えて4世代が経過しているものの、バティッ事業を自己の存在基盤に
置いたかれの生き方に続こうとする子孫はひとりもいなかった。子孫たちはみんな公務員
・軍人・教員などの職業を選び、バティッビジネスに関わろうとしなかった。サマンフデ
ィの婿のひとりがバティッ事業を行ったが倒産した。

サマンフディのバティッ製造所で使われていた百個を超える銅製のチャンティンスタンプ
(モチーフ原版)は11人の子孫の間で分配されたそうだ。


KHサマンフディは1900年代初期のラウェヤンバティッ黄金期に登場した代表的人物
だった。1930年のスラカルタではバティッ事業が387軒で行われており、その内訳
はプリブミが236、華人60、アラブ人88、ヨーロッパ人3となっていた。その23
6プリブミ事業所の205がラウェヤンにあったのである。ひとつの事業所で年間およそ
6万枚のバティッ布が生産された。

そのラウェヤンの黄金期は植民地インドネシアに民族独立の動きが高まった時期でもあっ
た。スリカッダガンイスラムは独立運動活動家たちへの資金供給源のひとつになった。サ
マンフディのインドネシア独立への貢献はたいへんに大きいものだったのだ。

オランダ東インド政庁はその事実を知って、ラウェヤンに警告と制裁を与えるために軍用
機を飛ばして爆弾を落とした。いくつかの家屋が被害をこうむったものの、植民地支配者
を怖れて独立運動への支援をやめるようなラウェヤンの民衆ではなかった。

サマンフディとラウェヤンの同志たちが独立運動のために拠出した金額がいくらだったの
かについてのデータはない。しかしラウェヤンでトップクラスのバティッ商人だったサマ
ンフディが没したとき、かれは遺産らしい遺産をほとんど残さなかったと言われている点
から見て、かれはインドネシア独立のために私財を投げうった英雄のひとりだったと言え
るだろう。

スカルノ大統領はサマンフディの功績を称揚して家を建て、1962年8月17日に完成
させてサマンフディの遺族にプレゼントした。「インドネシア民族独立へのサマンフディ
の多大な貢献を称えてインドネシア民族がこの家を寄贈する」とスカルノはスピーチで語
った。この家はカバナラン川南地区のリリス通りに面しており、近くにラウェヤンモスク
やキアグン へニスの墓所がある。

その家はサマンフディの子孫が使ってきたが、ひ孫のユユンは一族相談の上でその家をサ
マンフディとスリカッイスラムの遺品などを集めた博物館にして公開する意向であること
を表明している。

ラウェヤンモスクは1546年に建てられたイスラム礼拝所が後に改装されたものだ。礼
拝所の創建者はキ ブルッというヒンドゥ教徒だった人物で、イスラムに入信してから礼
拝所を設けて民衆をイスラム信仰に誘った。[ 続く ]