「大郵便道路(84)」(2025年04月16日) 西暦紀元8世紀ごろ、Pragotaと呼ばれるジャワ海に面した町があった。ガラン川の河口 にできたこの港町の沖にはいくつかの島が散らばっていた。しかし長い歳月にわたって絶 え間なく続く泥土堆積が陸地を海に押し出し、島々は陸地の中に呑み込まれてしまった。 発展したプラゴタの町は古代マタラム王国に服属した。現代スマランでBergotaという名 前を持っているエリアが古代のプラゴタの町の遺産だと考えられている。 Semarang Bawahと呼ばれている現代スマラン市街センター地区の一部はそのころ海底だっ たようだ。プラゴタ港は現在のPasar Bulu地区に該当し、1405年に来航した鄭和船隊 の乗組員が上陸したSimonganの海岸線の一部を成していた、という解説が見つかる。 この話からわたしは次のような地形の変遷を想像した。プラゴタという名前の土地は最初、 スマラン川がずっと南の丘陵部からその当時の海岸線に注ぎ込んで作った平地の辺りに生 まれたのだろう。古マタラム王国の時代に現在のパサルブル一帯はまだ海の底だったので はないだろうか。 プラゴタが現在のパサルブル地区にまで北進してくるのはその数百年後であり、鄭和船隊 がスマランに来航したころにはシモガンの海岸線が入江になっていて、大船隊の停泊が可 能な地理的状態が形成されていたにちがいない。その時代にパサルブル地区は入江を囲む 東側の岬(実際の姿は多分ガラン川が作った岬の西側部分)の役割を果たしていたのでは ないかと推測されるのである。 現代スマラン地図にそれを重ね合わせてみよう。仮にスマランのシンパンリマから西に向 けて線を引いてみると、2キロほどで西バンジルカナルのスマナン貯水場にぶつかる。ス マラン市内のブルゴタという地名を持つエリアがその2キロ区間の中に見つかる。パサル ブルも8百メートルほど北方に離れているが、この区間の中の西バンジルカナルに近い位 置にある。 スマナン貯水場からさらに西に向けて線を伸ばすと、すぐにグンプラッシモガン町の北端 とその線がほぼ重なりあう。1405年に鄭和船隊が上陸した場所がこの海岸線だった。 グンプラッシモガン町の西はボンサリ町で、両町の境界線あたりに三宝公寺院があるのだ。 鄭和の愛称であり尊称でもある三宝公の名前が付けられたその寺院は、その場所に天然が 設けた石の丘にできた洞窟をベースに置いた。 伝承によれば、鄭和船隊の上陸部隊はその洞窟にベースキャンプを置いたそうだ。後にそ の洞窟に三宝洞という名前が与えられ、偉大なる祖先のサンポコンを祭るために最初に上 陸した場所に寺院が建てられて、当然ながらサンポトンと同じようにサンポコン寺院とい う名を授けられた。 三宝公寺院はわたしが引いた仮想の東西ラインから5百メートルほど南に位置している。 パサルブルはもっと東側の位置にあってシモガンの海岸線を北に導いている。 もっと言うなら、これはまあ本旨と関係のない話になるが、わたしにはおなじみのクラピ ヤッ分岐路と西バンジルカナルのスマナン貯水場が、わたしの引いた仮想東西ラインの上 で3.5キロ離れて対峙している。 スマランという地名の由来についてもいずこも似たようなありさまのようで、諸説あって 芬々としている。インドネシア人の間でのみならず、華人の説も分かれている。どうして 華人がここに出てくるかと言えば、スマランは鄭和提督と強く結びつけられた町であるか らだ。15世紀に一隻1千人が乗った26隻の超大型船を率いて7回西方への大航海を行 ったチェンホ提督は訪れた土地土地にさまざまな逸話を残した。三宝大人として崇められ ているチェンホ提督の船隊がスマランに上陸し、ブキッシモガンにある洞窟を訪れた。そ のため華人子孫はその洞窟に「三宝洞」という名を付けた。 チェンホ提督の航海に付き従った三人の部下が書いた報告書の中にスマランという地名が 出てこないという話がある。寄港地として書かれた地名はスンダクラパ、トゥバン、グル シッ、マジャパヒッなどであり、スマランという地名は見当たらない。これもやはり名前 とものごとの関係のひとつだろう。そのころその場所がスマランという名でなく、別の名 前だったか、もしくは無名の土地だった可能性も考慮しなければならないのだ。何らかの 必要性が生じたために船隊が町のない陸地に上陸することだってありえないわけではある まい。[ 続く ]