「大郵便道路(85)」(2025年04月17日)

祖先がはじめてやってきた場所に崇敬を示すために寺院を建てて、そこで祖先に拝礼する
慣習を華人の子孫は持っている。三宝洞がそのよい実例のひとつだろう。洞窟をベースに
置いて寺院が作られ、この三宝公寺院では陰暦正月に子孫たちがそこを訪れて偉大なる祖
先に拝礼し、正月の歓びを示す催しを楽しむのである。

奇妙なことに、スマランを訪れたチェンホ提督の物語のバリエーションには、上陸したの
は船団の操舵手だけだったという話もある。またスマランという地名は三宝大人(福建語
発音サンポトアラン)が訛ったものという法外な説まで出されている。一方のインドネシ
ア人が語る語源説によればスマランとはasam yang jarangなのだそうだ。

15世紀末、ドゥマッの王子のひとりパゲラン マデ・パンダンが自分の行うイスラム布
教の目的地を思案して、Peragota地方へ赴くことにした。場所は現在のスマラン地方だが、
名前はまだプラゴタだ。

息子のラデン パンダン・アランと一緒に力を合わせてプサントレンを建て、住民にイス
ラム信仰を基盤に置く生き方を実体験させた。プサントレンは少しずつ盛んになって行っ
た。周辺の土地も肥沃さを増して、そのうちにめったに生えない種類のasamの木(タマリ
ンド)までもが生えるようになった。ひとびとはその現象に驚いて、asam yang jarangを
意味するAsem Arangと言う言葉を地名として使うようになった。こうしてスマランという
地名が誕生した。


ヨーロッパ人が来るはるか以前からプラゴタ地方は国際商港になっていた。肥沃な土地で
農業生産が進み、著しい経済発展が示された。プラゴタにイスラム共同体の村を作って村
長になったキアイ アグン パンダン・アラン1世が没するとその息子が後を継いで2世を
名乗った。

モジョパヒッ没落後ジャワ島中央部の覇権をつかんで全ジャワ島のイスラム化に邁進して
いたドゥマッも滅び、ドゥマッと姻戚関係でつながったパジャンの領主が、ドゥマッ王家
の内紛を抑えて覇権の根拠地をジャワ島内陸部に移した。

そんなプロセスの中で、スマランの地の繁栄を知ったパジャンのスルタン ハディウィジ
ョヨがスマランに関心を向け、パジャン王国領内の高位行政ヒエラルキーであるカブパテ
ンの地位を1547年5月2日にスマランに与えたのである。スマランの統率者はブパテ
ィの官位を得た。それが現在のスマラン市創設記念日になっている。

しかしパジャンはマタラムスルタン国に倒されて覇権を奪われ、ジャワ島北岸部の諸服属
領地はマタラムの手に移された。ところが1705年にパクブウォノ1世がVOCにスマ
ランを譲渡したのである。それは、カルトスロ王宮を占領したアマンクラッ3世から王宮
を奪い返すのにVOCが協力するならスマランを進呈しようという約束の帰結として起こ
ったことだ。

1743年にスマランはジャワ東部北岸知事行政区の行政センターになった。ラフルズ時
代にはレシデン統治区になった。VOCはスマランの海岸線沿いに要塞を建てたが、海か
らやってくる敵に備えてのものでなく、内陸からの敵に対して陸地を離れる前の最後の抵
抗ラインとして使うためだったとプラムディヤは書いている。その要塞は撤去され、軍隊
は内陸部のアンバラワに移動した。


ジャワ島が植民地体制下に置かれると、スマランの重要性は大きく上昇した。しかしガラ
ン川の泥土堆積によって北側の陸地に不健康な海岸の湿地帯が絶え間なく形成されていっ
たから、スマランを地域の経済・産業・行政のセンターにするため、19世紀末に東イン
ド政庁はガラン川がスマランの市域に入る手前で運河を掘り、洪水と泥土を直接西側の海
に流すことを試みた。運河は町の東側にも作られて川水の一部をまっすぐ海に導いた。ス
マラン市街の西に掘られた運河はWest Bandjir-Kanaal、東のものはOost Bandjir-Kanaal
と名付けられた。しかしバンジルカナルの建設もスマランに完ぺきな安全性をもたらすこ
とができなかった。ガラン川はスマラン市域に入るとスマラン川と名前を変える。30年
に一度、スマラン川の氾濫が町に大きい損害をもたらしている。[ 続く ]