「ソロのバティッ(9)」(2025年04月21日)

20世紀初期まで、ラウェヤンのバティッ産業は女性に支えられていた。女性が生産をコ
ントロールすると同時に、家庭の経済生活の舵を取った。この町の歴史の中にもプトゥリ
ソロの心意気が滔々と流れていたのである。

ラウェヤン町民が歴史の中で垣間見せた独立自尊の精神や自立傾向、エガリテ精神、アン
トレプルヌール志向、権力への畏怖心理が薄いといった特徴をプルディカンの歴史に帰す
るひともいる。オランダ時代にラウェヤンのひとびとは植民地政庁を怖れる姿勢をあまり
示さなかった。男も女もたいそうberaniだったという話だ。ラウェヤンの事業者たちはオ
ランダ人の支配下にあるヌサンタラの産業経済に対して果敢な挑戦を行った。


ソロでは女が機敏に敏捷に働く。その伝統はラウェヤンのバティッ産業にも色濃く表れて
いた。プスポスマルトの屋敷で少年のころから働いてきた使用人パルディさんはお屋敷の
主人と奥様の生活ぶりをその目で見てきた。かれの話はこうだ。

バティッ生産現場は奥様が統率していた。奥様はスブの時間から起き出して屋敷内を回り、
使用人に指図を与える。10時ごろにはバティッ作業所で仕事を統率しながら家の中の掃
除のできぐあいをチェックしに回るから、作業所を頻繁に出たり入ったりする。寝室に入
るのは夜の22時だった。

奥様の寝室と主人の寝室は別々になっていて、その間に扉があって直接出入りできた。主
人が亡くなってから、奥様は主人の部屋でお茶を飲み、バティッ事業のお金を数えること
をそこで行っていた。


ラウェヤンの上流商人たちは、スロカルト王宮の貴族階層に対する対抗意識を強く抱いた。
貴族とはスロカルト王宮歴代のカスナナンの兄弟姉妹たちの子孫に当たる。貴族階層が生
活する広い土地と豪壮な屋敷を上流商人たちも真似たとはいえ、そこに流れていたのは憧
れでなくて対抗意識だったようだ。貴族的な生活スタイルに対しては徹底的に逆のことを
行った。

ジャワ人貴族が行っているポリガミをラウェヤン商人はしない。浪費的な生活スタイルを
否定する。誇るのは自分の能力であり、血筋ではない。ハードな勤労意欲と精神性によっ
てラウェヤンの商人は貴族たちと肩を並べるステータスを獲得した。王宮は権力と文化や
芸術のセンターであり、生産販売の場は経済のセンターだ。商人たちは王宮の外で経済活
動の場の主人になった。

大金持ちになった上流商人たちは、貴族のお屋敷とよく似た邸宅を作った。プンドポ、プ
リンギタン、ンダルム、ガンドッ(表ベランダ)、スントン(部屋の中に作った小部屋)
などを備えた邸宅に平民のかれらも住んだのである。そして馬を飼い、馬車を持った。


インドネシアで華人街騒乱という公式名称になっている、1740年10月9日から三日
間に渡ってバタヴィアで吹き荒れたVOCによる華人大虐殺の嵐にまつわるエピソードが
ある。と言っても関連性は大きく離れているのだが。

華人街騒乱はバタヴィアで終息したものの、バタヴィアからジャワ島の他地方へ逃げた華
人も大勢いた。かれらはVOCに反撃するために戦闘部隊を編成し、反VOCのジャワ人
と組んで各地でオランダ人に襲い掛かった。この続編が華人街騒乱と関連付けて語られる
ことが少ないために、現代華人が物語る紅渓惨案が一方的な華人被害者の悲劇という見方
になっているようにわたしには思われるのだが、歴史が作り出すベクトルは正しく観察さ
れ理解されるべきだろうという気がする。

事件のタイトルがGeger Pecinan(華人街騒乱)とPerang Cina(華人戦争)別名Perang 
Kuning(クニン戦争)あるいはPerang Jawa(ジャワ戦争=ディポヌゴロ戦争とは異なる)
などというまるで異なるテーマのようなものになっているとはいえ、華人戦争というのは
華人街騒乱の帰結として華人がジャワ人と組んでVOCと戦争した事件であり、華人がお
となしくオランダ人に大虐殺されただけで華人街騒乱が終わったという視点にはバイアス
を育むリスクが潜んでいる危惧をわたしは感じるのである。[ 続く ]