「大郵便道路(86)」(2025年04月21日)

1906年の法律でスマランはへメンテに指定され、市長が最高行政官になった。日本軍
政期にはスマラン市を日本人市長が統括し、その補佐官として日本人とインドネシア人各
一名が副市長の座に着いた。1945年8月17日のジャカルタにおける独立宣言を受け
て、8月19日にはスマラン州副州長官が州のインドネシア共和国への帰属を公式表明し
た。スマラン州内の各地方行政区は共和国としての体制作りを開始することになる。


1945年10月15〜19日に起こったスマラン5日間戦闘は有名な事件だ。スマラン
5日間戦闘は連合国AFNEI軍のスマラン到着によって日本軍とインドネシア側の衝突が大
規模で悲劇的なものになるのを回避することができた。しかしインドネシア側の戦力はそ
の5日間に大打撃をこうむり、薄弱な武力戦力しか残されておらず、AFNEI軍が市中の秩
序を掌握するための障害になる茨の垣根は街のどこにも存在していなかった。

終戦処理のために進駐してきたAFNEI軍は建前としてのインドネシア国内政治不干渉を厳
守してインドネシア共和国スマラン市行政を最初から対等な相手にした。とは言うものの、
かれらが最初から掌握する意図を持っていた市中の治安と秩序、つまり武力の部分はAFNEI
軍がしっかりと握ったのである。5日間戦闘で大打撃を受けなければスラバヤのミニチュ
ア版のようなことが起こったかもしれない。

終戦処理業務が完了したあと、AFNEI軍はインドネシアから撤退した。そのときに何が起
こったか?1946年5月16日、それまで市行政機構の中の秩序と治安をつかさどって
いたAFNEI軍は業務の引継ぎをNICA(オランダ東インド植民地文民政府)だけに対し
て行ったのだ。続く6月3日、インドネシア共和国スマラン市の市長イマム・スジャッリ
はNICAの罠に落ちて逮捕された。その瞬間、インドネシア共和国スマラン市行政が消
滅したのである。NICAはスマラン市を流血なしにそっくりそのまま手に入れた。

しかし実際の共和国による国民行政は独立闘争の有志や政治家によって1948年12月
まで闇の下で継続された。その間、影の市行政機構はプルウォダディ〜グブッ〜クドゥン
ジャティ〜サラティガ〜ヨグヤカルタと、転々と本拠地を移動させながら国家の国民に対
する義務を不完全ながら維持継続した。


パサルブルの東側に巨大なロータリーがあってスマラン5日間戦闘を記念する「スマラン
青年の碑」が建てられている。このロータリーの東側が有名なラワンセウだ。そこからお
よそ6百メートル北東にスマランで古い住宅地区のひとつSekayu地区がある。

スカユ住宅地区の南をスマラン川が流れて海に注いでいる。スカユ地区はその名の通り、
遠い昔に木材置き場だった場所だ。グロボガンやクンダルで伐り出されたチークの丸太が
スマランに運ばれてくると、スカユに置かれた。

もしもガラン川が丸太運搬路に使われた場合はクンダル内陸部やウガランのチークがスカ
ユまでやってきたように思われる。海路であるなら、船はスマラン川を少しばかり遡行し
たにちがいない。そのスカユに1413年、キアイ カマルが木造のモスクを建てた。い
ま、そのモスクの正式名称はMasjid At Taqwa Sekayuとなっている。このモスクはドゥマ
ッ大モスクの1420年の完成よりも古い。モスク建物は一本柱で屋根を支えるトゥンパ
ン方式で設計され、材木はチークが使われた。

スカユ地区に見られる古い住宅家屋はたいていチーク製で、ジャワ風とオランダ様式が混
ぜられたインディススタイルが使われている。おっと、スカユモスクが建てられた時代よ
りも数百年後の話をわたしはしているので、アナクロニズムにご用心ください。地元有力
者のひとりは、スカユスタイルの家屋はだいぶ残り少なくなってきたと語っている。


鄭和船隊がシモガンに来航したころ、スカユは少なくともスマラン川の河口から多少は離
れたエリアだったことが推測される。というのも、チーク材を集積するための常設丸太置
き場を波打ち際に設けるようなことは考えにくい気がするし、波打ち際にモスクを建てる
ようなことももっと考えにくいように思われるからだ。

シモガン海岸とパサルブルを結んだ線を北東に向けて伸ばしていけば、15世紀初期のス
マランの海岸線が何となく想像できるように思われる。[ 続く ]