「大郵便道路(87)」(2025年04月22日) スマランにもジャカルタのようにオランダの街がある。もちろんその規模は大きく違って いて、ジャカルタは1.3平方キロの広さがあるのにスマランは0.31平方キロの面積 しかない。言うまでもなくそれはそれぞれが持った歴史に起因している。 ジャカルタのオランダ街がKota Tua Jakartaと呼ばれているように、スマランのオランダ 街はKota Lama Semarangと名付けられている。オランダ語でジャカルタのコタトゥア地区 がOud Bataviaと呼ばれているのに対して、スマランのコタラマはSemarang Oude Stadだ。 スマランのコタラマはタワン鉄道駅の南側に位置している。もちろんインドネシアで最初 の鉄道線路がスマランに敷かれる何百年も前にVOCがそのエリアにVijfhoekという名前 の要塞を築いたことがコタラマの歴史の扉を開いた。フェイフッという名称だったのだか ら五角形をしており、5隅にはブンスホーテン、ゼーランド、アムステルダム、ユトレヒ ト、ラームスドンクと名付けられたバスティオンが設けられていた。ただし規模は小さい もので、40人の守備隊が入ればいっぱいになったそうだ。 フェイフッ要塞は1677年ごろに建てられた。最初はジュパラの要塞の機能を代替させ る意図で建てられたという話が語られていて、1695年に作られたVOCの地図にはス マラン川東岸にこの小型要塞の名前と姿が描かれている。 要塞建設の許可をVOCに与えたのは1677〜1703年を在位期間にするアマンクラ ッ2世だった。トゥルノジョヨの反乱を鎮圧してくれたVOCにマタラム王は頭が上がら なくなってしまったのだ。 1756年、VOCは小型要塞の大型化を行い、三つのバスティオンを取り壊してもっと 広い位置にバスティオンを新たに四つ建てた。その結果、要塞の中は建物やパレード場が 設けられほどの規模に広がり、教会・軍高官の住居・通商取引所や商品倉庫などが建てら れた。しかし結局スマランでも、防衛ということがらの概念が転換されるのは時間の問題 だったようだ。 ダンデルスがバタヴィアで示して見せた、ナポレオン仕込みの概念転換がスマランに適用 される日がやってきた。1824年、フェイフッ要塞は完全に撤去されて、もっと広い市 街地がオランダ人の前に街づくりのスペースの扉を開いたのだ。要塞外郭跡地に作られた 道路は元あった要塞を追憶する名前を与えられた。 Noorderwalstraat(北防壁通り)は現在のJl Merak OosterwalstraatはいまのJl Cendrawasih Zuiderwalstraatは現在のJl Kepodang Westerwalstraatは今のJl Mpu Tantular その一画に運河が掘られ、道路が作られ、オランダの建物が並んだ。そして日本軍に占領 されるまでその地区がスマランの商業と経済と、そして行政のセンター地区になった。ソ ロとジョクジャの王国領を含む中部ジャワ内陸部の農園で生産される砂糖・コーヒー・カ ポック綿・ゴム・コプラその他スパイス類などがスマラン港から大量に輸出された。スマ ランは世界に名だたる商業都市になった。 スマランでエキゾチック気分を味わいたければ、リトルネーデルランドと綽名されている コタラマへ行けばよい。このエリアは周辺地区とまるで雰囲気が異なっていて、オランダ 人によるスマラン支配の歴史を象徴するようなたたずまいを示している。このエリアが繁 栄を謳歌したのは2百年間だった。 このエリアのエピセントラムに当たる公園が今のスリグンティン公園だ。ここはオランダ 時代にパレード場としての役割を担ったので、パラーデプレインと呼ばれていたらしい。 植民地軍の兵舎から近かったので自然にそうなったのだそうだ。そういう華やかな舞台と して使われるようになる前、その広場は教会付属墓地だった。19世紀初めに墓地はプガ ポン地区に移された。[ 続く ]