「大郵便道路(88)」(2025年04月23日) スリグンティン公園が面しているスプラプト中将通りはオランダ時代のHeerenstraatだ。 ヒーレンの言葉が意味する通り、そこはハイクラスが集まる一等地になっていて、大会社 のオフィス・高級商店・金融機関・教会・金持ちの豪邸などが立ち並んだ。 1828年に建てられたDe Javasche Bankのスマラン支社。Gereja Blendukと通称される イマヌエル教会はインドネシアでたいへん古いプロテスタント教会だ。最初1753年に 建てられたものはジャワ風高床式でジョグロ屋根だったそうだ。1787年に改装されて ドーム屋根に変えられた。 教会の真向かいにあるビルにはJiwasrayaの表札が掲げられている。このビルは1916 年ごろにトマス・カーステンがNillmij van 1859社の注文に応じて建てたものだ。ニルメ イという名称はNederlandsch Indiesche Levensverzekering en Lijfrente Maatschappij (オランダ東インド生命保険年金会社)の頭字語であり、マツハペイというオランダ語は しばしばmijと省略される。スマラン初のモダン建築がこのビルだったそうで、スマラン ではじめて手動のリフトがこのビルの中で動いた。ニルメイの並びには地方裁判所があり、 イマヌエル教会牧師の公式住居として使われたこともある 赤レンガの洒落た建物はMartak Bajunaid Maatschappij略称Marbaだ。19世紀半ばごろ にイエーメン人大商人マルタッ・バジュネッがそれを建て、ひとびとはそのビルをマルバ と称した。そこは白人専用のスーパーマーケットだったという情報も見つかるが、最初か らそうだったのかどうかはよくわからない。 1895年に建てられたH.Spiegelという名前で知られているビルは高級商品を扱う雑貨 店だった。公式名称はNV Winkel Maatschappij "H Spiegel"で、オーストリア=ハンガリ ー系ユダヤ人三人が共同で興した会社であり、ヘルマン・シュピーゲル氏がマネージャー になったためにかれの名前が採られたようだ。取り扱ったのは高級ブランドの衣料品や家 庭用器具あるいは装飾品などだった。 ヒーレンストラートと南北方向に交差する道路のひとつがKomedistraatだ。この通りはい まチュンドラワシ通りになっている。どうしてコメディという名前が付けられたかと言う と、その通りに大きい劇場Statschouwburgが建てられていたからだ。劇場の建設はフェイ フッ要塞の完全撤去からほどなくして行われた。 大郵便道路建設によってスマラン〜バタヴィア間の交通の便が向上し、スマランに居住す る西洋人が増加傾向にあったことがドラマ・オーケストラ音楽・バレーなどを上演するた めの娯楽施設の建設を招いたと言われている。 インドネシア人はこの劇場にMarabuntaという名前を付けた。マラブンタとはアフリカに 棲む大型肉食蟻のことだそうだ。 コメディストラートの東側をほぼ並行して通っているKloosterstraatに面して、マラブン タと少しはすかい気味で背中合わせになっているのがSusteran Gedanganだ。最初はVO Cスマラン支所の高官フレデリック・ユリウスが1732年にゴシック様式の病院をそこ に建てた。オランダがフランス時代に入ってから東インドでカトリック教が解禁され、神 父スホルテンが1809年にその建物を買い取って孤児院にした。スマラン初のカトリッ ク教孤児院がそれだ。 ヒーレンストラートとタワン鉄道線路を結ぶ南北方向の道路がOude Stadhuisstraatだ。 今はブランジャガン通りという名称になっている。最初この道路にスマラン行政府が置か れた。1850年に行政府が移転した後、そこにNV. Drukkerij G.C.T. Van Dorp & Co. が入って印刷出版事業を行った。1858年から1930年までその事業が続けられ、オ ランダ語ばかりか、ジャワ語やムラユ語の書物も出版された。 南西の方角にあるラワンセウからコタラマに向けてBodjongweg大通りがまっすぐ上がって きて、スマラン川の橋を渡ってヒーレンストラートにつながる。ボジョンヴェフ大通りは 今プムダ通りという名前だ。そのプムダ通りの東端の橋のたもとにGedung Papakがあり、 そしてその西隣がスマラン郵便局だ。パパッ館は最初Het Groote Huis(市庁舎)として 1854年に建てられた。ところが1954年に大火災が起こったために建て直された。 現在のパパッ館は改装されたあとのもので、今その建物は国家財務ビルになっている。隣 りの郵便局建物は1862年に建てられている。[ 続く ]