「大郵便道路(89)」(2025年04月24日)

ヒーレンストラートの南側を並行して走っている通りがHogendorpstraatであり、今はク
ポダン通りという名前になっている。この通りにも銀行や大企業のオフィスが並んだ。砂
糖の帝王ウイ・ティオンハム財閥の事業ヘッドクオーターもそこにあった。19世紀後半
に建てられたと思われるウイ・ティオンハムコンツェルンのオフィスビルはクポダン通り
とスアリ通りの角地に建って、往年の威勢を誇示している。

また、マスメディア界で一世を風靡したオランダ語新聞De Locomotiefも本社をホーヘン
ドルプストラートに置いた。この新聞はSemarangsch Niews and Advertentiebladという
名前で1851年から発行を開始し、1863年に名前を変更した。


ヒーレンストラートの西端にある、スマラン川にかかる橋から北に上って海に達する道路
がWesterwalstraatだ。この道路がコタラマの西の境界を成していると考えられていたよ
うだ。この道路にも古い建物がたくさんある。社交場Societeit De Harmonieがスマラン
にも建てられていた。橋からすぐそばの場所だ。イ_ア語情報によれば、建てられたのは
1908年で、一時期、国営商社Nederlands Handel Maatschappijのスマラン支社として
使われたこともあったらしい。別の時期には劇場として使われたそうで、現在はマンディ
リ銀行の店舗になっている。

この通りには大型農産物生産者兼商社も事業所を開いていた。NV Cultuur Maatschappij 
der Vorstenlanden社は1888年にアムステルダムに設立された会社で、スマランに事
業所をオープンし、中部ジャワの王国領を含めて広範なエリアで商業用作物のための農園
を経営し、生産物を輸出した。

製糖工場を3つ所有し、砂糖・コーヒー・藍などを手広く生産して輸出した。1910年
ごろに建物が大改装され、そのとき現在の姿になった。この会社はオランダ資産国有化に
よって国有農園会社PTPN XVになり、今日に至っている。


コタラマ地区には建築年齢百年を超える歴史遺産としての建物が237あり、そのうちの
179が利用されていると2015年にスマラン市長筆頭補佐官が表明している。194
2年まで繁栄のピークを極めていたコタラマは、日本軍の到来でゴーストタウンになった。

オランダがインドネシアに作ったあらゆる物を呪う統治方針で臨んだ日本軍政は、コタラ
マを焼き滅ぼしたかったかもしれない。アジアをヨーロッパ支配から解放する崇高な使命
を果たしにやってきた日本軍はヨーロッパ文明がアジアに作ったあらゆる物がその支配の
記念碑になることを、当然ながら熟知していた。これからアジアを聖域にしていくべきイ
ンドネシア人がそんなものを一顧だにしてはならないのである。少なくともそれが、あの
時代の日本人が構築したイデオロギーだったのだ。

日本軍政はオランダ語の地名をすべてプリブミの言葉に変え、オランダ人が建てた記念碑
を可能なかぎり打ち壊したが、街区という地理的空間になってしまえば、簡単に何かがで
きる対象になりようがなかった。現実空間はイデオロギーが生み出すネガティブなエネル
ギーの手に負えるものでないことが、既に歴史によって証明されているはずだ。つまり記
念碑を先に作った者が勝つのである。それが先取権というものなのだ。

ともかく、日本敗戦後スマランに戻ってきたオランダ人たちはコタラマを復活させた。N
ICAの植民地に戻されたスマランの街のセンターの位置にコタラマはリバイバルを果た
したのだ。しかし運命は二転三転した。独立インドネシア共和国国民にとって、コタラマ
における社会経済活動はきわめて縁の薄いものだった。まるでオランダ租界のようになっ
ていたコタラマはプリブミにとって掠奪の対象にこそなれ、地域社会を復活させようとい
う意識が立ち昇る源泉はどこにも存在しなかったのである。そこは長い期間、暗い夜の続
く浮浪者のねぐら、売春婦の稼ぎ場、そして昼間は闘鶏の賭場という社会の掃きだめにな
っていた。

忘れられていたコタラマがスマラン市民の意識に上ってきたのは1993年のことだ。コ
タラマの外でインドネシア共和国の建設と開発を行っていたスマランのひとびとがオラン
ダ人に成り代わってその街区の昔の機能を復活させようと考えるわけがないだろう。コタ
ラマのリバイバルは街区自体が持った商業価値に関わるものにしかなりようがなかったの
である。[ 続く ]