「大郵便道路(90)」(2025年04月25日)

< ドゥマッ Demak >
28キロの距離を少し北東寄りに進んで大郵便道路はドゥマッに入る。ドゥマッに達する
まで、海岸部を海に向かって流れる多数の小さい河川が工事作業者に障害をもたらしたこ
とだろう。ドゥマッの町自体もトゥンタン川によって分割されている。

市街地に入って来た大郵便道路はまっすぐアルナルンに向かい、世に名高いドゥマッ大モ
スクを左に見ながら北東に進む。そしてトゥンタン川を渡ってから東に向きを変えて市街
地から離れて行く。一方の国道1号線はドゥマッの市街に入る直前で右に折れ、市街を迂
回して水田地帯を通過してから、町の中心部を貫通してやってきた大郵便道路に合流する
のである。


このドゥマッの町も、元々は海岸にできた町だった。しかし現在のドゥマッの町は海岸線
から7キロ以上も内陸にある。何百年もかけて川がせっせと陸地を海に押し出していたの
だ。プラムディヤ・アナンタ・トゥルのドゥマッに関するコメントには次のような内容が
書かれている。

ドゥマッが町として世に知られるようになったのは1500年ごろからだ。モジョパヒッ
王国の大王即位の内紛が行政に混乱を招き、国威を弱めたために、ジャワ島最初のイスラ
ム王国設立の機会をドゥマッに与えてしまった。

ドゥマッが勃興したころ、この町はジュパラのような商港だったようだ。政治経済のオリ
エンテーションは海に向いていた。王の長男はポルトガルに征服されたマラカを奪還しよ
うとして5千人の軍勢を百隻の船に乗せた一大軍船隊をマラカに送り、海戦で敗れた。1
512年のパティ ウヌスによるマラカ進攻がそれだ。そして5年後に初代スルタンが逝
去した。

ドゥマッの王の名前はこれまでラデン パタとされてきた。Patahとはアラブ語Fattahの転
訛であり、勝利を意味する。出自はパレンバンの華人コロニーで、Jin Bunという名前だ
った。バーティカル社会ヒエラルキー意識が本能の中にまで刷り込まれたジャワ人は、王
になる人間の体内に王の血筋の一滴すら入っていないことはありえないという人間観によ
ってラデン パタをモジョパヒッ最期の王統の流れを汲む人物にした。ジャワのさまざま
な年代記に、ドゥマッ初代スルタンはモジョパヒッ最期の王の王子であるというストーリ
ーが記されている。

動かせない事実として、ドゥマッ王朝が一編のジャワ文芸作品をも遺しておらず、この王
朝の出現や来歴について自ら一言も物語ろうとしなかったということが挙げられる。ドゥ
マッ王朝の歴史を物語るジャワ文芸作品ははるか後の時代にやっと出現しており、おまけ
に使われたジャワ語はドゥマッ王朝時代のものでなかった。

ジャワ島イスラム化の歴史に物語られているドゥマッは、ワリソゴたちイスラム布教界の
大立者らに祝福されてヒンドゥ社会をイスラム化することに邁進したという立場で描かれ
ている。ヒンドゥ時代にも、王権が社会に宗教変革をもたらす際にはバラモン層がその後
ろ盾に就いて祝福を与えた。

ワリソゴのイスラム布教活動に関する多くの説話も、比較的新しいジャワ語で書かれたも
のが流布している。9聖人の代表的な人物であるスナン カリジャガの名前は古ジャワ語
のPari Wrajakaに由来していた。教えながら放浪するという意味だ。パリウラジャカとい
う言葉がカリジャガに変化したのであれば、その変化は16世紀初期に起こったものでは
ありえない。少なくとも2世紀の時差をわれわれはそこに認めなければならないだろう。


ヤコブ・ファン ヘームスケルク提督がドゥマッに足跡を印した最初のオランダ人だった。
1602年にかれが来航したころ、ドゥマッの国威は黄昏の時期に入っていた。ジャワ島
東端のヒンドゥ王国との戦争に敗れ、王権はパジャンの支配者の手に移されて内陸部に首
都が置かれた。ジャワ島の覇権を狙うマタラムスルタン国の防波堤になったパジャンも1
604年の戦争に敗れて結局はマタラムの野望に呑み込まれてしまう。

それから一世紀あまりが経過して、1746年にドゥマッはVOCの支配地になった。ま
たその百年後の1848/1849年、ドゥマッは人口33.6万人のカブパテンになっ
ていたが、強制栽培制度がもたらした飢餓によって1850年には人口が12万人に激減
した。その事件はグロボガンで9万8千5百人が9千人になるという凄まじい人口減少が
起こったためにグロボガンが脚光を浴びることになったわけだが、ドゥマッで起こった悲
劇が等閑に伏されてよいものでもない。[ 続く ]