「大郵便道路(91)」(2025年04月28日)

< クドゥス Kudus >
ドゥマッを後にした大郵便道路は少し北東気味に偏りながら、22キロほどでクドゥスの
街に入り、市街に入るとまっすぐ中心部のアルナルンに向かって突き進む。そしてアルナ
ルンの東北角から東に向かって町を後にする。少し北東に位置するパティに向かって、ま
た旅を続けるのだ。ドゥマッを出た後の国道1号線は、この大郵便道路とオーバーラップ
してクドゥスの町を貫通している。

この町の名前は「清い・聖なる・純粋な」などの意味を持つアラブ語彙に由来している。
ジャワ島で起こったイスラム化の初期段階で、その重要な網の目の役割をこの町が担った
ことを人はその名前から推察する。確かにそれは間違っていない。16世紀にこの町はワ
リソゴのひとりスナン クドゥスを生み、かれは単にイスラム宣教に専念するばかりか、
ドゥマッスルタン国の王権をこの町に敷く統治行政者にもなり、そしてヒンドゥ王国モジ
ョパヒッを没落に送り込む戦争の指揮さえも執った。


アルナルンの北西に位置しているクドゥス大モスクMasjid Al-Aqsaの隣にある赤茶色の塔
が世に名高いMenara Kudusだ。インドネシア語のムナラという言葉は一般的に塔を指して
使われているものの、この言葉は最初モスクに付属する塔minaretを指してムラユ語に摂
りこまれたようだ。

というのも、ミナレットという言葉自体、モスクの塔を指すアラブ語ミッダナがトルコ語
を経由してフランス語に入ったものとされていて、普通一般の塔を意味するアラブ語のブ
ルジュとは異なる語彙になっているのだから。モスクに付属している、アザーンの呼び声
の響き渡る音源の建物はアラブ人にとって単なる塔ではないということらしい。

多分イスラム教が東漸してくる間にどこかでミッダナがミナラになり、さらにムナラに音
変化したのだろう。だからムナラクドゥスという名称を「クドゥスの塔」と日本語訳する
よりも「クドゥス(大モスク)のミナレット」と呼ぶほうが実態を正確に示す表現ではな
いかという気がわたしにはするのである。


高さ18メートルで土台部分の広さが10x10メートルのこのミナレットはとてもユニ
ークな形状をしているので有名だ。なんと、イスラム教のミナレットがヒンドゥ時代のチ
ャンディの形をしているのである。インドネシアのイスラムがアラブ文化に丸ごと追従し
ようとせず、ヌサンタラ文化との融合を基盤に置く寛容なイスラムヌサンタラという独自
のイスラム教のあり方を実践したサンプルとしてしばしばこのクドゥスのミナレットが話
題にのぼる。

一説によれば、この建物はチャンディパナタランと同じ時期に建てられたもので、西暦1
200年ごろのクディリ王国時代に王や王家のひとびとの灰を祀る場所に使われていた。
15世紀にスナン クドゥスがクドゥスの町を大改造した際、スナン クドゥス自身がこの
チャンディを大モスクのミナレットとして使うことを決めた。ヒンドゥ教徒や仏教徒の住
民にイスラム信仰を教える場として、まだイスラムになじんでいない住民があまり強い違
和感を感じないようにするのがその目的だったと語られている。

しかしまた別の説は、スナン クドゥス自身がこのデザインでミナレットを造らせたとい
う話になっている。このミナレットにヒンドゥの像や彫刻がまるで見られず、イスラムシ
ンボルばかりが装飾に使われている点がそれを証明しているという立説者の主張にも確か
に説得力が感じられる。その場合、このミナレットの建設はクドゥスの町に起こったイス
ラム変革期になされたことになるだろう。建てられたのは1549年だとされていて、今
ではそれが定説になっている。

その建設に際してスナン クドゥスはモジョパヒッ軍の戦争捕虜を使った。モジョパヒッ
の王都を攻撃したドゥマッイスラム軍は最初、スナン グドゥンが総司令官を務めたが、
戦闘行動中に戦死したためにスナン クドゥスが後継して戦闘を勝利に導いた。スナン ク 
ドゥスが戦争捕虜をクドゥスの町作りに使役することはかれの立場上、たいした困難がな
かったのだろう。[ 続く ]