「ソロのバティッ(終)」(2025年04月28日)

ラウェヤンのシドルフル通りでBatik Halus Puspa Kencanaのブランドを掲げてバティッ
事業を営んでいるスライマンさんは1992年からラウェヤンバティッのマレーシアへの
輸出を再開した。バティッ用キャリコ布をコンテナ1本、バティッ製品をコンテナ1〜2
本、毎月マレーシアに輸出している。

スライマンは最初、マレーシアのランカウィ島にバティッ用キャリコをオファーしてみた。
ランカウィでバティッの商品税が免除されていたからだ。すると注文がどんどん入ってく
る。半島部のトゥレンガヌやクランタン、そしてクアラルンプルにオファーをかけてみた
ところ、良好な反応が得られた。マレーシアの巨大ハイパーマーケットがラウェヤンバテ
ィッの取り扱いを始めた。その販売網を通して毎年数千着のバティッ服が売れている。
マレーシア向けのバティッ製品はマレーシア人が好む大柄の花のモチーフを手書きで描い
たものをメインにしているそうだ。

スライマンは1850年代にbatik Akromのブランドで事業を始めた家系の第6世代だ。
バティッ事業は断続したものの、ラウェヤンの血がかれに家業の復活を行わせた。製品は
売れる物を作ることだ。モチーフはパプアであれ、リアウであれ、あるいはマレーシアで
あれ、柔軟に選択している。


今ソロのバティッ産業を眺めるなら、ソロにはいくつかの生産センターがある。たとえば
カウマンだ。カウマンでのバティッ産業はラウェヤンから流れ込んできたものだ。20世
紀に入ってから、ラウェヤンの娘がカウマンの男性と結婚してカウマンでバティッ作りを
始めるというようなケースが起こるようになった。カウマンでのバティッ産業の発端はそ
ういう形で始まった。

スラカルタの地図を見ればわかるように、カウマンはスロカルト王宮前のアルナルンの北
西に接している。王宮周辺は何百年もの昔から貴族やアブディダルムが住むエリアになっ
ていた。もしもラウェヤンの娘がアブディダルムの家に嫁入りすれば、妻は身に着けた技
術を使ってバティッを作り、チャリウアン活動をするだろう。しかし夫がそれを手伝うよ
うなことはしない。

王宮であれ貴族の屋敷であれ、アブディダルムになって働く男はジャワ貴族文化の価値観
を身にまとって生きて行かなければならない。アブディダルムを使う王族貴族たちは自分
の使用人が卑しい金稼ぎ(つまり普通の商売)を行うことを認めない。低級の卑賎な人格
を持つ使用人などはいない方がましなのだ。だから使用人自身がその価値観を自分のもの
にしなければ、アブディダルムとしての仕事が失われることになる。

こうしてカウマンでも、女性がバティッ産業を掌握することになった。アブディダルムの
夫は妻の仕事に関わらないかぎり、貴族文化における自分の人格を維持できる。

クレウェル市場がインドネシア最大のバティッ市場になったのはカウマンでバティッ生産
が始まったのに関連して起こったことだろうという説もある。クレウェル市場は1930
年代にカンジュンラデントゥムングン スチョユドの公邸だった。ところが長期にわたっ
て空き家になっていたので、ジャワ貴族の趣味である鳴き声の良い鳥を売買する市場とし
て使われていた。カウマンのバティッ商人がそこに目を付けて、バティッをそこで売るよ
うになった。売場を開くわけにいかないので、商品を手に持って歩きながら販売したから、
その売り方がクレウェランと呼ばれたそうだ。その場所がバティッ市場になったときにク
レウェル市場と命名されたのはそれが由来だったのではないかという話になっている。
[ 完 ]