「大郵便道路(92)」(2025年04月29日) ヒンドゥ教徒をイスラムに入信させるためにスナン クドゥスは度量の深い寛容性を見せ た。上で述べたミナレットの話もそうであり、またそれとは別にヒンドゥ教の禁忌である 牛肉を食べないことにも特別の配慮を示した。イスラムに入信した元ヒンドゥ教徒たちに 対して、イスラムに心を閉ざしている住民たちを刺激しないために牛肉を食べないように しようとかれは勧めたのである。その結果、クドゥスにできたウンマーでは、牛肉でなく て水牛の肉が食用にされた。20世紀に入ってもその慣習は続けられ、クドゥスでは水牛 肉料理が今でも地元の特選メニューになっている。 グリス川畔にできたこの町にはイスラム教に関わる遺跡遺物が多いが、ヒンドゥブッダ時 代には西側が町の中心になっていた。住民は木や竹で作った家屋に住み、農業と川魚の漁 を主な生計手段にしていた。そこにスナン クドゥスという強力な指導者が出現してこの 町をイスラム化し、町を設計しなおし、産業を振興させて住民の経済生活を向上させた。 グリス川を通って他地方との通商を活発化させることは、かれの行政方針から引き出され た当然の帰結だった。スナンクドゥスの行政方針はGusjigangと呼ばれている。 gusとはbagusのこと、jiはmengajiのこと、gangはberdagangのこと。クドゥスの住民は善 き人間になり、いつもアルクルアンの章句を唱え、商売に精を出すことを理想像にした。 クドゥスがマタラム王国領になったころ、街区にはジョグロ屋根を備えたチーク製の木造 住宅がならび、独特のクドゥス風彫刻で飾られた木壁の家屋が重厚な姿を示していた。マ タラム王国がVOCに町を譲り渡すと、徐々にヨーロッパ風の建築デザインが混じりこむ ようになり、レンガ壁の家屋が増加して行った。成功した商人たちは高いレンガ塀で住居 を囲い、街並みの中にそんな風景が混じるようになった。 ジャワ島最初のプリブミ大商人はこの町でクレテッ煙草製造業界の中に出現したという話 が語られている。1880年にニティスミトの一家がクレテッ煙草の生産を開始し、大手 ブランドDjarumがクドゥスの町中に産声を上げたのである。 植民地時代にこの町が全ジャワ島のクレテッ煙草市場をわがものにした。インドネシア共 和国が独立した後、クレテッ煙草は海外に輸出されるまでになった。クドゥスがクレテッ の町であるという事実は、1980年住民人口8万人中で43,268人がクレテッ煙草 産業に従事していたという統計数字に見ることができる。そのほとんどがクレテッ煙草製 造作業所にやってきて日がな一日調合されたタバコを紙に巻く手仕事作業者であり、しか も43,268人中の31,412人が女性だった。 クレテッ煙草ほどの規模でないにせよ、住民はさまざまな家内手工業を営み、また向上し た農業生産が商業活動を押し上げた。米・その他穀物・砂糖・グラジャワ・コーヒー・縫 製品・刺繍・ジュナン・・・。19世紀後半のクドゥスの繁栄はそれらの産業がもたらし たものだった。 クドゥスには1840年に建てられたレンデン製糖工場がある。オランダのハーグに設立 された民間資本のMirandolie voute & co社が植民地で製糖事業を開始したのだ。ファン デン ボシュの栽培制度がスタートしたころから、サトウキビ農園がクドゥスの町の周辺 を覆っていたと言えるだろう。 また過去一世紀にわたってクドゥスの名はカポック綿大産地としてヌサンタラに名をとど ろかせていた。既に斜陽に向かい始めたとはいえ、1983年のカポック綿栽培面積は5 千Haにのぼり、93.7万本のカポッの木がその大地を覆っていた。[ 続く ]