「カスティルバタヴィアの滅亡」(2025年04月30日)

オランダ人クペルスが1815年にスンダクラパ港に上陸したとき、東南の位置に偉容を
誇っていたバタヴィアカスティルは廃墟になっていた。城壁は崩され、カスティルの中に
あった建物、中でもあの壮大だった総督館さえもが姿を消していた。東方の女王と形容さ
れたバタヴィア城市のそんな傷ついた姿はクペルスの心に儚さをもたらした。「これでは
まるでゴーストタウンだ。」

決してバタヴィア城市内(現在のバタヴィア旧市街)の全域がゴーストタウンになったわ
けではなく、JPクーンの建てたバタヴィア要塞とその南側の高級住宅地区のことをクペ
ルスは述べている。

カスティルの南大門とバタヴィア市庁舎前の大広場(今のファタヒラ公園)を一直線で結
ぶ儀典道路プリンセンストラアト(今のチュンケ通り)を歩いたクペルスは、VOC高官
やバタヴィア高位者の邸宅のいくつかが取り壊されてさら地になっているのを目にした。

カリブサールで東西に分離されているバタヴィア城市の東側はカスティルに直接関わって
いるエリート層の住宅地区であり、市庁舎東側を通る運河テイヘルスフラフツ沿いに並ぶ
邸宅はクナリの木に囲まれた美しい姿を見せていた。そんな美しい住環境をわたしはオラ
ンダで目にしたことがないとクペルスは書いている。


VOC時代のバタヴィアでこの町の住民は、事務所へ行って会社の業務に精を出し、家を
預かる者は奴隷を使って屋内の秩序を保ち、またパサルで買ってきた物で料理を作り、す
ることがなくなれば街中をぶらぶら歩きまわって時間をつぶした。

会社高官の奥様は何層にも重ねたニワトリ籠のようなスカートとガウンを身にまとい、高
価な宝石装身具で飾り付け、取り巻きの奴隷にさまざまな物を持たせて運河縁を散策し、
自分を見せびらかしながら涼を求めた。

傘係は奥様を日射から防ぐために傘で影を作り、扇子係は奥様に風を送り続け、シリを噛
み続ける奥様のためにシリの道具入れを持つ者、吐き捨てる真っ赤な唾を入れる壺を持つ
者など、たくさんの取り巻きが奥様にくっ付いて歩き回った。奥様の中にはヨーロッパか
ら来た女性もいれば、現地生まれで現地育ちのニャイもおり、ニャイが生んだ混血のバタ
ヴィア女性もいた。

バタヴィア城市内には15本の運河が掘られてカリブサールおよび城壁の外の運河とつな
げられていた。夕方になると、城市内の運河縁に建てられた水浴小屋に女性たちが集まっ
て来て、男たちが見物しているのもものかわと、素裸になって運河に入り、身体を洗って
いた。運河はまた、ロマンチックな舞台を恋する若者たちに提供した。小舟に乗ったカッ
プルがギターを弾いて唄いながら運河を周遊するのである。


1815年のバタヴィア住民人口は4万7千人だったそうだ。19世紀末には11.6万
人になっていた。19世紀を通してバタヴィアは村落部のような雰囲気が濃厚だった。ま
ったく対照的な商工業の港町スラバヤとは生活のリズムが大違いだったように思われる。
19世紀末のスラバヤは住民人口14.7万人を擁していた。

クペルスが訪れたとき、バタヴィアはイギリスの統治下にあってラフルズ第40代総督が
行政府を率いていた。しかしクペルスが見たバタヴィアがヘルマン・ヴィレム・ダンデル
ス第37代総督の1808年に出した方針の結果であることをかれはもちろん知っていた。
ダンデルスはバタヴィアの行政センターを海岸沿いのバタヴィア城市から15キロほど南
のヴェルテフレーデンに移転させたのだ。

総督館は南往き街道のスネン市場の手前の道路西側にホワイトハウスを建てて移転させ、
その表に儀典広場を設けた。現在の大蔵省建物とバンテン広場がそれだ。同時にカスティ
ル内にあった軍隊の機構も規模を拡大させてヴェルテフレーデンに移した。

今のモナス広場はそのときに作られた。そこは最初、フランス語でChamps de Marsと呼ば
れていた。軍隊の演習場だ。しかしほどなくKonings Pleinという名前に変わり、プリブ
ミはLapangan Gambirと呼んだ。日本軍政期にはIKADA広場と呼ばれ、インドネシア独立後
はLapangan Monasになった。スカルノが広場中央に独立記念塔を建てたからだ。

バチカンのサン ピエトロ広場、北京の天安門広場、モスクワの赤の広場よりも広い、世
界で一番広い儀典広場がインドネシアにある。