「中華系インドネシア芸術(前)」(2025年05月05日) ライター: 芸術文化オブザーバー、アグス・デルマワン T ソース: 2000年1月31日付けコンパス紙 "Tionghoa Bukan Cuma Barongsai" 中華系インドネシア芸術?そんなものがあるのか? 中華系アーテイストによって表現された、伝統的中華文化とヌサンタラの地元文化の融合 現象が生み出した芸術作品が示す独特の特徴が本当に存在しているのだろうか? 芸術と人類学のプロセスに関わる知識にわれわれの意識を向けるなら、「多分あるだろう」 という答えが耳の奥に聞こえてくる。 本当は、過去の数十年間にインドネシアの中華系住民が順風の中にいれば、そのような質 問は容易にポジティブな答えを得ることができたのである。そうであったなら、中華系芸 術家たちは(多分)特徴的なアート作品を世に送り出して、その存在を社会に示していた はずだ。中華系インドネシア芸術はオルバ政権から差別的な疎外を蒙った事実がある。芸 術面で起こった過去のその現象を採り上げるなら、グループ的、セクト的さらにはショー ビニズム的性質を持つアートを生み出す人種感情に対する非難が積み上げられることにな るだろう。これはひとつの例だ。 1980年代にシアウ・ティックイの呼びかけで華人系画家が集まった。かれらは合議し た末にジャカルタ文化会館で共同展覧会を開催した。数日後、ある新聞にその展覧会の簡 単なルポ記事が載った。その展覧会は疑わしい華僑のアリサンの集いであると言うのであ る。「疑わしい」!? 作品を展示した画家たちの全員が自らをインドネシアのアーテイストと確信しているひと びとだった。かれらにはたまたま華人の血統が混じりこんだにすぎない。かれらのリーダ ーになったシアウ・ティックイも劇画Sie Jin Kuiの作者であり、インドネシアに根を下 ろしている芸術家だ。かれはジャワ文化に深く関わっている人物であり、キ アグン スル ヨムントラムの哲学をプリブミ名オト・スアスティカの名で翻訳している。シアウと同じ ソロ生まれのドゥラはシアウ評をこう語っている。シアウは百パーセントジャワ人の自分 よりももっとジャワ的な華人だ。 *** 中華系インドネシア芸術は独特で個性的な特徴を持ち、インドネシア芸術の世界に新しい 色合いをもたらすことができるという確信をリー・マンフォンの作品から感じ取ることが できる。リー・マンフォンは1955年にYin Huaを設立してジャカルタのロカサリに本 部を置いた。インフアに加わった数十人の華人系アーテイストは制作活動に励み、展覧会 を催した。かれらはユニークな混合芸術であるChinese Indonesian Paintingを編み出し て世の中にアピールした。インフアの副会長リー・ナンルンはこう語った。「われわれは われわれの作品でインドネシアの芸術史に貢献したい」。 かれはあたかも、20世紀初期に華人ムラユ文学というジャンルを作り出した華人プラナ カン作家たちからインスピレーションを受けたかのように見える。 スカルノが賞賛したその会派はスハルト時代に息の根を止められた。インフアという集ま りで生まれる画風を通して新しい文化のひとつの場をインドネシアにもたらしたいという かれらの意欲の火が消されてしまった。国民に大打撃を与えた事件が中華と呼ばれるもの の存在にトラウマチックな亡霊の色を塗り、中華という匂いのするあらゆる集まりが法規 によって規制されたためだ。 東ジャワ州マランで30年前にワヤンウォン劇団アン・ヒンホー(ジャワ名ワルゴ・パン ドウォ)が生まれた。ジャワの伝統芸能であるワヤンウォンと中華演劇の技術とムードを 折衷させたこの試みも、政治による否認という状況のために火が消えてしまった。 以後、世の中に登場するものは散発的で個人的なものばかりになった。その代表格がアス マラマン S コー・ピンホーだろう。拳法の強豪が活躍するかれの作品群はインドネシア の超大ポピュラー小説になった。小林寺派のさまざまな術が乱れ飛ぶかれの物語は、かれ がひとりで行った創作活動だ。「この職業での友人はひとりもいない。」とかれは自分の 境遇を語っている。自分の子供のすべてにプリブミの伴侶を持たせたこの舅は、インドネ シアの大衆文学の中で孤軍奮闘する中華系作家にならざるを得なかった。[ 続く ]