「大郵便道路(95)」(2025年05月05日) < ジュウォノ Juwana > パティから12キロ進んだ大郵便道路はジュウォノの町に達し、市街南部にあるアルナル ンを通過してルンバンに向かう。ムリア半島の東の付け根にできたジュウォノの町を出た 大郵便道路は、ルンバン目指して海岸線をひた走る。それが国道1号線でもある。 この町の名前はインドネシア語でジュワナと発音されるが、ジャワ人の発音はジュウォノ と聞こえる。ジュウォノ川沿いにできたこの町は、2世紀前にはルンバン湾に面した賑や かな商港だったばかりか、ジャワ島北岸の港町がどこでもそうであったように造船の町で もあった。だがしかしジュウォノ川の泥土堆積はついに、干潮時に港の機能を麻痺させる ようになり、また一方で沿岸部に不健康な湿地帯を広げ続けた。 最初からこの町は人口の多い商業都市だった。特に大勢の華人商人が大金持ちになって威 勢を示した。かれらの富の源泉はたいていアヘンの取り扱いに由来していて、街中での消 費だけでなく内陸部への通商路の役割が獲得される富の量を押し上げた。しかし植民地政 庁がアヘン販売を独占許可制にしたため、大金持ち華人が更なる大金持ちになり、中小の 金持ちは没落の道をたどった。 スマラン〜ジュウォノ間に鉄道線路が敷かれると、海路を通っていた物流は陸路に移行し た。港町ジュウォノの賑わいが下降してくると、それまで副レシデン統治区だったジュウ ォノはブパティ統治区になり、さらに1902年1月1日にウェダナ統治区にダウンして 行った。 1741年バタヴィアの華人街騒乱の後を受けてVOCへの雪辱を果たそうとする華人戦 争が中部ジャワ北岸一帯を襲ったとき、パティやジュウォノでアンチヨーロッパの暴動が 発生した。中でも、VOCが行っていたインディゴ栽培制度がプリブミ民衆の怒りと憎し みを陰にこもらせていた時期とあって、藍の生産に手を染めていた資本家たちが暴動のメ インターゲットにされた。もちろんヨーロッパ人もいたが、ジュウォノ在住華人たちの多 くも手を藍色に染めていたのだ。 ジュウォノの華人たちは昔からSedekah Lautの伝統行事を行っていた。海の霊に捧げるた めに供物を沖に運んで流すのである。しかしジュウォノ華人のスドゥカラウッの本質は端 午の節句に行われるPeh Cun[打-丁+八]船であり、ヌサンタラのあちこちで営まれている ペーチュンの祭事がジュウォノではひとつのバリエーションになっていたということだ。 おなじみの[打-丁+八]龍船の早漕ぎ競争などもアトラクションの中に含まれていた。オル バレジームがそれを禁止しないはずがなかった。 かつてジュウォノで栄えた産業のたいていが生命力を失った。昔、ジュウォノは真鍮加工 産業で有名な町だった。造船の町では船舶用スクリューの廃物が潤沢に手に入ったから、 真鍮を鋳溶かして蝶番、蛇口、ドアハンドルなどが作られていた。しかし素材コストが大 幅にアップしたため、資本力がそれに付いていけなくなってしまった。 かつてふたつあった造船所はひとつだけになってしまったが、1960年以来、政府の所 有になったジュウォノの造船所では、パトロール船・スピードボート・タグボート、そし て何よりもマルクの漁民さえもが好む漁船の製造が今でも続けられている。地元の漁師た ちの生計の柱がそれら大小の漁船だ。 製塩産業も生き延びている。1987年には1,165Haの塩田が4,460戸の製塩農 家に生計を与えていた。[ 続く ]