「大郵便道路(96)」(2025年05月06日) 1986年にジュウォノ港の浚渫が行われたことで、漁業活動が活発化した。その年、ジ ュウォノ港魚市場では1.2万トンの海産物取引が行われている。 ヌサンタラの漁村はどこへ行っても貧困の色濃い姿をしているのが常識だ。ところがジュ ウォノ川の河口にあるブンダル村へ来たひとびとはまるで例外的な姿を目にして驚く。ジ ャワ海と大郵便道路にはさまれたこの村の家屋のたいていが、世にありふれた木や竹の陋 屋の並ぶ集落でなく、レンガ壁に立派な屋根を葺いた家屋の町になっていて、中には水泳 プールを備えた家まであるのだ。ブンダル村住民のひとりは語る。 1980年代ごろまで、この村は常識的な漁村の様子をしていた。家は小汚い掘立小屋で、 住民はだれもかれもが貧しかった。わたし自身は、1952年から海へ帆船で漁に出るよ うになった。漁師仕事のための資金は限りなくゼロに近かった。今は1隻百GTを超える漁 船を7隻持つ船持ち漁民になることができた。自分のような成功者はブンダル村の漁民の 中にざらにいる。 2008年のデータは、ブンダル村の7百戸の漁民の7割が船を持っていることを示して いる。今のブンダル村にはもう下水のドブの腐った臭いは跡形もなくなり、風に乗って流 れてくる海の香と堅牢な家屋の表に植えられた樹木が発する大自然の匂いが村の中を満た している。木の下には最新型四輪乗用車が置かれている。 村の漁業が年間1千4百億ルピアの売上を記録したこともあるそうだ。かれら漁民の持ち 船はジュウォノ川に係留され、その中に冷凍設備を設置中の船もあった。この船で経済専 管水域まで漁に出る計画だと船主は取材の記者に語った。 1980年代に政府がジュウォノ川の浚渫工事を行ったことで、泥土堆積によって死にか かっていた港町ジュウォノがよみがえった。2百年にわたって繁栄を示した港町、そして ルンバンやラスムに並ぶ造船の町が息を吹き返したのである。ジュウォノ川の河口に船の 行き交う姿が復活し、地域一帯に魚のピンダン料理産業が広まった。ピンダンというのは 魚に塩とスパイス類をすりこんでから煙で燻したり、あるいはカラカラに茹で上げる料理 法で、長期保存が可能になる。 ブンダル村の繁栄は大郵便道路の南側にある村々との相互連関を引き起こした。南側は農 業地帯だ。かれら農民たちは自分の作物の収穫期が終わるとブンダル村にやってきて漁船 に乗った。たいていの農家は自分の得る収穫が自家消費で尽きてしまう。中には足りない 家もある。漁船に乗ることで現金収入が手に入るのだ。ブンダル村の漁船の乗組員は9割 が農民だと船持ち漁民のひとりは述べている。 1980年代にブンダル村の経済が向上した時、漁船の乗組員の人手不足が起こった。村 の漁民はまず例外なく船持ちだ。多い者は11隻持っている。たいてい1隻に10人が乗 り組む。南の村々の農民が来なければブンダル村の漁船は稼働が困難になる。その相互連 関によって地域経済が盛り上がったのである。 5隻の船を持っているズッディさんは小学校を卒業していない。かれは文字の読み書きが できない。サインができるだけだ。かれは漁師の人生をまったくのゼロからスタートした。 最初の仕事は船の甲板洗いだった。ブンダルの者は粘り強い、とかれは言う。簡単に諦め ることをしない。船を買う目標を立てたなら、金を貯めるために質素倹約に徹底する。か れは既にふたりの子供の将来のためにモダンな家屋2軒の所有者になっている。 漁民の生計に女の果たしている役割がたいへん大きいことをかれは指摘した。漁獲を売り に行くのは女たちの仕事だ。そして売れ残った魚をピンダンにして販売する。 ブンダル村の漁船はファミリー運営されているのが普通だ。船長と機関室長はたいてい兄 弟や義理の兄弟関係になっている。そして核になる乗組員たちも往々にしてその船の株を 持っている。つまり共同出資者になっているわけだ。漁獲収入の分配はそんな関係の中で 信頼関係にもとづいて行われている。[ 続く ]