「大郵便道路(97)」(2025年05月07日) < ルンバン Rembang > ジュウォノからおよそ21キロ、大郵便道路はカリオリという名の小さな町を通ってから 海岸線を覆う湿地帯に沿って海岸の町ルンバンに達する。今では、そのカリオリを通過す る大郵便道路のすぐ脇に、海水を塩田に導くための風車が姿を現している。巨大なものか ら小さいものまで大小の木製風車は、ありあわせの素材で作られた見すぼらしいものだ。 今という時代でその姿を見るかぎり、そこには貧困の色が滲んでいる。 ルンバンの町のアルナルンも海からほんの目と鼻の先だ。アルナルンの北側を大郵便道路 は通過して東のラスムの町に向かう。その間、道路はぴったりと海岸線に並行して走る。 その同じ道が国道1号線だ。 ルンバンという町はインドネシアにおける女性解放運動の先駆者カルティ二を生んだ。カ ルティ二はジュパラのブパティの家に生まれてそこで成長し、ルンバンのブパティと19 03年に結婚し、1904年に25歳の若さで急逝した。 カルティ二は12歳になるまでELSで学ぶことを許され、それから深窓に隠されて暮ら したもののオランダ語とヨーロッパの諸思想を学ぶことに熱中し、女性を虐げているジャ ワの慣習を改善する志を立ててオランダ人との文通やオランダの雑誌への寄稿などを行っ た。そして結婚してからルンバンのブパティ公邸の一角に女性教育のための学校を設立し、 後にカルティ二スホールという公称を与えられた。その校舎は今、カルティ二高等学校と いう通称で呼ばれているものの、男女共学の国立高校になっている。 ルンバンの町にはカルティ二の墓所があり、町にはカルティ二通りがあり、カルティ二高 校もあり、カルティ二公園もあって海岸にはカルティ二ビーチまである。 カルティ二は同母異母合わせて11人の兄弟姉妹の長女だった。言うまでもなくジャワ貴 族はポリガミを行うのが当たり前の時代であり、そうすることによって男の甲斐性として の夫の威厳が上昇した。だからカルティ二自身が既に三人の妻を持っているルンバンのブ パティの四人目の妻になったことも、時代の常識のなせる業だったということになる。 カルティ二の実兄であるラデン マス パンジ ソスロカルトノはインドネシア人として初 期のオランダ留学生であり、ヨーロッパ暮らしを続けて新聞記者になった。ヨーロッパで 豊かな暮らしをしているかれを、後進たちが羨望の目で見ていたという話がある。 ソスロカルトノの話は拙著「留学史」をご参照ください。 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan81-Ryuugakushi.pdf 1925年に中部ジャワのブローラで生まれてそこで成長したプラムディヤ・アナンタ・ トゥルは1995年に書き下ろした小作品Jalan Raya Pos, Jalan Daendelsと題する著書 の中で、1930年代にその目で見た大郵便道路の偉容を次のように物語った。 大郵便道路はブローラを通らない。長い休みになるとわたしはあちこちへ自転車で遠出し た。大郵便道路のルンバン〜ラスム区間を探索したのもそのひとつだった。よく繁ったタ マリンドの並木にはさまれた、幅広できれいな道路はどこまで走ってもわたしを感嘆させ 続けた。 路上には通行車両が途切れることなく続き、スラバヤとスマランを往復する長距離バスの 「Bromo」と「Tan」が疲れを知らないかのようにひっきりなしに現れた。わたしはそんな 道路の様子を何時間も、飽きもせずにルンバンのアルナルンの北端の隅で鑑賞した。 わたしの感嘆は多分、1960年代にドイツのアウトバーンをはじめて目にしたときのも のと同じだったのではあるまいか。 プラムの一家が住むブローラから45キロ離れたルンバンの町のアルナルンの北側の道が 大郵便道路だった。道路は東隣のラスムの町と西隣のバタガンの町をつないで海岸を走る。 大郵便道路が作られる前、海岸沿いにはグルシッまで達する小さい道があった。少なくと も大郵便道路のその区間が新設された道路でないのは間違いない。既存の道路が固められ、 路幅が拡張されたのだ。[ 続く ]