「大郵便道路(98)」(2025年05月08日)

プラムの母親の実家はルンバンのアルナルン南西角地にあり、父親はその右隣の家のパビ
リウンの二階に下宿していた。プラムがその母方の祖父の家に遊びに行くと、アルナルン
東側にある女学校「カルティ二スホール」で教鞭を執っている母親の妹が「あら、村の子
が来た。」と冷やかした。ルンバンはモジョパヒッ時代からの重要な町であり、ブローラ
はそんな伝統の何もない町だったから、叔母の冷やかしがプラムのプライドに突き刺さる
ことはなかったそうだ。

ルンバンのアルナルンから2キロほど西のクラングナン川の河口にジャワ海の他の港を往
来する渡海船の港があり、そこは現在ルンバン港になっている。プラムはそこで造船も行
われていたと書いている。

ルンバンやラスムが面しているその湾にある町々は昔から造船業の盛んな土地だった。ポ
ルトガルが1513年1月1日にマラカを攻略したあと、パティ ウヌスが指揮する百隻
の大船隊がマラカを奪還するためポルトガルの攻撃に向かった。その大船隊の船の多くが
そこで作られたものだったようだ。

次いで、ラトゥ カリニャマッのポルトガル征伐船隊の船の多くもそこで作られた。この
女王は1550年にポルトガルと対戦したジョホールを支援し、更に1573年1574
年にポルトガルと戦ったアチェをも支援した。

パスルアンをイスラム化するためにドゥマッのスルタン トレンゴノが行った戦争の際に
も多数の船が作られ、何千人ものイスラム兵がジャワ島東部に海路運ばれた。だがその戦
争も侵攻軍が敗退した。最新鋭の大砲を装備したイスラム軍だったというのに、シワ神を
奉じるヒンドゥ教徒に撃退されたのである。


しかし1970年代半ばごろのルンバンの町中の様子をクドゥス住民のひとりが次のよう
に述懐している記事がある。かれはルンバンへ行く前に兄弟から、16時を過ぎたらルン
バンからクドゥスに向かう乗合バスはなくなるから気を付けるように言われた。ルンバン
で用事を終えたかれはカルティ二ビーチの前でスマラン〜スラバヤ街道を往復する乗合バ
スをつかまえようとして、東からやってくるバスを待った。だが、一台もバスは来なかっ
た。時計を見ると16時10分になっていた。かれは帰るのを諦めて、カルティ二公園に
足を踏み入れた。そこにはダンデルス時代に建てられた古い教会があり、1945年から
プロテスタント教会として使われるようになったそうだ。

公園の砂浜には鉄製の大きい錨がひとつ、斜めに傾いで立っている。そこはルンバンのア
ルナルンの北端から海に向かっておよそ2百メートルほどの位置だ。その錨はルンバンを
訪れた鄭和船隊26隻の中のひとつが残していったものと信じられている。

ヨーロッパ人が南海にやってくるはるか以前に、1隻に1千人の乗る巨大な船を連ねて友
好親善と文化の交流のために鄭和提督の大船隊がやってきた。ジャワ海にやってきた大船
隊が突然の突風と大波に襲われて、一隻が大破した。錨はルンバンの沖に流され、帆はル
ンバンの町の東方15キロの位置にあるボナン海岸に吹き飛ばされて落ちた。その錨のあ
る位置は鄭和船隊が来た時、海岸から7キロ以上沖合の深い海底だった。そこに流れ込む
大中15の川が何百年もの間に深い海底を陸地に変化させたのだ。

カルティ二公園の西側がタシッアグン村になっていて、住民の大部分が海に出て漁労を営
んでいた。船持ちか乗組員か、そのどちらかだ。この村には魚市場があるのだが、水揚げ
する漁船はほとんどいなかった。漁民の家はみんな質素な貧しい家屋で、潮が満ちると波
しぶきがかかった。

太陽が沈んで夜が訪れると、カルティ二ビーチからアルナルンとブパティ公邸一帯、そし
てそこから6百メートルほどの距離にあるルンバンの商業センター街さえもが静寂の中に
沈んだ。スマラン〜スラバヤ街道(大郵便道路)も薄明りの街灯の下で息をひそめた。

そんな寂れたルンバンの町も2000年前後に地元行政が行った町の活性化プロジェクト
によって大幅な改革がなされ、その後はまた賑やかさが戻ったそうだ。[ 続く ]