「バタヴィア城市に病院(前)」(2025年05月08日) VOCは18世紀半ばにBinnen HospitaalまたはBinnen Ziekenhuisと呼ばれる病院をバ タヴィア城市最南部の城壁沿いに設けた。正確には現在のジャカルタコタ鉄道駅向いにあ るインドネシア銀行博物館の建物が建っている土地だ。その道路の端には病院付属のキリ スト教会があって、そこではムラユ語で祭祀のプロセスが行われていたそうだ。というこ とはつまりビンネンホスピタルはオランダ人あるいは西洋人向けの専用病院でなく、VO Cのプリブミ奴隷やアジア人の自由人も対象にしていたということをそれは示しているの だろうか? ダンデルス総督が首都機能をバタヴィア城市からヴェルテフレーデンに移した結果、公立 大型病院も軍大病院がヴェルテフレーデンに建てられたためにビンネンホスピタルは無用 とされて取り壊された。 その場所に1828年、オランダ国王の指示に従って開設されたDe Javasche Bank N.V. の本社が置かれた。この銀行はオランダ東インドの通貨システムを担う役割を持たされて オランダ東インドフルデンを発行し、その流通を実践しまた管理した。植民地時代にオラ ンダ東インドの通貨と金融を掌握した四つの機関のひとつがそれだ。 その四つとはこのジャワ銀行ならびに三大商業銀行と呼ばれて大きな役割を果たした: Nederlandsche Handel-Maatschappij N.V. Nederlandsch-Indische Handelsbank Nederlandsch-Indische Escompto Maatschappij の三つである。 ジャワ銀行は1951年にインドネシア共和国政府が接収し、1962年にタムリン通り に移転するまで、その建物で業務が行われていた。建物は2009年にインドネシア銀行 博物館として一般公開されて現在に至っている。これは余談。 城市内病院ができたのはいいが、医学や薬学の知識も技術もまだまだ初歩的な段階にすぎ なかった時代、病院に入って治療を受けた患者の5割以上が生きて外へ出てこなかったと 言われている。おまけに病院に入ったはいいが、治療を受ける機会がやってこないまま人 生を終えた者は治療を与えられた者よりも多かったという話もある。多分そういう実態を 踏まえてささやかれていたのだろう。あそこは死の館だという言葉が。 病院には数人の医者がいた。ビンネンホスピタルの外科は当時のヨーロッパの慣習に倣っ て、床屋外科医が手術をした。髪やひげを切ったり剃ったりするナイフがメスとして使わ れ、手術の際にはナイフを火であぶって消毒した。 1762年から1783年までバタヴィアとジャワ島各地の風景を描いたVOC社員ヨハ ネス・ラッハの絵が遺されている。Het Gezigt van de Nuwport Straad met de Nuwport/ Hospital en HospitalsKerk binne Bataviaというタイトルの付されたラッハの作品には、 ビンネンホスピタルの患者たちが道路上に群れている姿が描かれている。 多分VOC船の船員が大部分を占め、軍務社員も多少その中に混じっていると思われる患 者たちは三十人くらいいて、自分の私服に裸足姿で、一群になって路上を散歩しているよ うだ。中には服を脱いでいる患者もいて、当時のセラピーの中に朝陽で日光浴をすると健 康に良いというものがあったことを示している。籐の棒を持った男の看護人が何人も付き 添っていて、看護人は時々その棒で患者を打った。それが当時の治療法だったらしい。 ビンネンホスピタルだけでは需要が満たせないほど病人が多かったために、VOCはノル ドヴェイク要塞地区にも病院を設けた。ノルドヴェイク要塞は今のイスティクラルモスク の北側の水門がある地区に1658年に建てられ、1808年に取り壊された。[ 続く ]