「バタヴィア城市に病院(後)」(2025年05月09日)

カリブサルで東西に二分されたバタヴィア城市の西半分には華人がたくさん居住した。城
市西側地区の北端は港であり、税関や入国管理事務の行われるエリアになる。貨物倉庫が
あり、バタヴィアを訪れる高官のための迎賓館も必要だ。そして、カリブサル沿いには造
船所があって、労働者が日々そこへ通っていた。現代地図を見ると、そのブロックの南側
にあるのがJl Tiang Benderaとなっている。その道路名称の旗柱(旗竿)とは何を意味し
ていたのだろうか?

VOCは金を稼ぐのが達者な華人コミュニティから資金を集めようとして、人頭税を課し
たそうだ。税の徴収はコミュニティチーフであるカピタンチナに行わせ、コミッションを
カピタンに与えた。

城市内に住む華人庶民は定められた税をカピタンチナの家に納めに行かなければならない。
納税の時期をコミュニティに知らせるために、カピタンチナは毎月最初の一週間、自宅の
表に建てた旗柱に旗を掲揚した。つまり、旗が出ている間に納税に来いという信号だ。そ
のためにカリブサル西地区の住民たちはその旗柱のある通りをティアンブンデラ通りと呼
ぶようになった。

華人コミュニティもティアンブンデラ地区に病院を設けた。病院は今のティアンブンデラ
I通りに面していた。カリブサル東地区の南端にVOC肝いりの病院が作られたのと対照
的に、西地区の北端に近い場所に華人病院があったのである。


Yangju Yuanという名前のこの華人病院は1640年に建てられた。第2代カピタンチナ
のPhoa Beng Gan(Phoa Bing Gam 潘明岩甲)が音頭を取ってそれを建て、オープンを実
現させた。カピタンのプア・ベンガンはタナアバンに広大な土地を持つ富裕な頭家であり、
製糖工場をそこに所有していた。

プアは灌漑土木技術の専門家だったことから、カリブサルにつながる、それまで自然のま
まに曲がりくねっていたチリウン川を直線にする工事を17世紀半ばごろに引き受けて実
行した。今のガジャマダ通りとハヤムルッ通りにはさまれた直線の運河はプアが作ったも
のだ。オランダ人はその運河をモーレンフリートと呼んだ。

VOCのオランダ人は華人の力を活用してバタヴィアの都市建設を行った。カピタンチナ
は華人労働力を増やす必要に迫られて、あちこちから華人をバタヴィアに招いた。中国本
土からも華人が大勢やってきた。ところが、バタヴィアの不健康な環境のために健康を損
ねる者がたくさん出たのは、ヨーロッパ人と大差ない。カピタンは病院の必要性を痛切に
感じたはずだ。


最初、石と竹を組み合わせて作った病院建物は質素な外観だった。しかし1661年に改
装工事がスタートし、1667年までかけて総レンガ作りの建物になった。華人がカピタ
ンに納める税金の一部が病院の運営費用に当てられた。

病院は1729年に拡張されてさらに充実した内容になった。病院の医師と医療技術は後
発のビンネンホスピタルよりも進んでおり、病院としてのクオリティは西洋式病院より格
段に優れていた。ビンネンホスピタルの建物は荘重な姿をしていても、華人病院の医師の
方が経験豊富であり、設備や器具もより完ぺきなものになっていた。

華人病院の医師は優れた人材が多く、その中には血脈を読んで患者の病状とその治療法を
割り出す能力をもっている者がいる、とオランダ人VOC職員のひとりが17世紀末に書
いている。

しかし華人病院は1740年に発生した華人街騒乱によって、その未来を断たれることに
なった。そのときバタヴィア城市内ではVOC軍による華人大虐殺の嵐が吹き荒れ、華人
病院にいた者は女子供に至るまで全員が殺された。華人街騒乱のあと、華人は城市内での
居住が禁止されて、城壁の外のグロドッ地区を華人街にするよう命じられた。だからティ
アンブンデラの華人病院がその後も病院活動を続けた可能性はきわめて薄いようにわたし
には思われるのだが、華人病院が空き家になったのは数十年間のことであり、華人病院が
廃止されてへメンテバタヴィア市庁が取り壊しを命じたのは1919年にチプトマグンク
スモ中央市民病院がオープンしたことに関連して起こったできごとであるというイ_ア語
記事に出会って驚いている。[ 完 ]