「大郵便道路(99)」(2025年05月09日)

< ラスム Lasem >
大郵便道路はルンバンの町からおよそ10キロ東進してラスムの町に達する。モジョパヒ
ッ時代、ラスムは王族が領主として統治する王侯領だった。ラスムの統治者ブレ ラスム
の宮殿がそこに置かれ、王国の戦略を実現させるための戦力がそこで養われた。

プラムディヤ少年が自転車を漕いでルンバンから大郵便道路をラスムの町まで踏破したと
き、ラスムの町に近付くと交通量の賑やかさが低下したとかれは書いている。1930年
代ごろのラスムの町中はまるで中国の町という印象だったそうだ。ラスムがリトルチャイ
ナと呼ばれるほど中華色の濃い町になったのは、ジャワ島にやってきた初期の華人がラス
ムに上陸して住み着いたからだと言われている。

ラスムに中華寺院が三つあり、その中で最大のものがダスン通りのチューアンキオン(慈
安宮)だ。この寺院は15世紀に建てられたと考えられている。何百年にもわたってラス
ムに代々住み着いた華人たちは、大きな中華風住居を建て、邸内を中華風に飾り付けて儒
教文化の伝統の中で暮らしてきたが、ジャワ文化をも摂り入れてプラナカン折衷文化にな
っているのが普通だった。

優れたガムランのセットを所有し、宗教祭事や家族の祝い事にはガムラン奏者が招かれて
必ず演奏が行われた。2016年の記事には先祖代々伝えられたガムランセットがラスム
の華人プラナカンの5家に保存されていると書かれている。チョー家が所有していたペロ
ッ調ガムランセット「Kyai Nggower」を所有者が手放すことに決めたので、最後の演奏会
が行われたという取材記事がその内容だ。

キアイゴウルはブローラのタン・シアメイが売りに出したものをラスムのリー・ホワンジ
アンが1919年に購入してラスムに運んだ。そのあともラスムの華人コミュニティの中
で所有者が転々としたのだろう。現在の所有者はキアイゴウルを手入れして維持する費用
が重荷になってきたことを売却の理由に挙げている。

ラスムの華人プラナカンにも家族が小さくなったり、あるいは家系が続かなくなる現象が
増加している。チョー家の現当主も年齢がかさんで病気がちになるなどして、歴史的文化
財を維持する重責を担うのが困難になってきたようだ。町中にある中華風住居の中にも、
高い塀に囲まれた中の豪邸が空き家になって半ば朽ちているところが少なくないという実
態がラスムのリトルチャイナを有名無実に導いている。


ラスムで成功者華人はたいてい大きな中国様式の邸宅を建て、外周を背の高い塀で囲った
から、通行人の目から遮蔽されていた。街中のあちこちが大きな塀にはさまれた路地にな
っていても、中国風の門構えや屋根がリトルチャイナの印象を明瞭に映し出していた。

中にはその塀の裏側が大きなバティッ作業場になっている家があり、豊富な色使いのバテ
ィップシシランが昔からそこでたくさん生産されていた。pesisiranは海岸部を意味する
言葉で、内陸部を指すpedalamanの対照語になっている。スラカルタをメインにするバテ
ィップダラマンは普通、茶色と藍色を主体に使った一方、色使いの派手なバティップシシ
ランを好んで着用するのは華人系女性ばかりだったとプラムは書いている。

abang getih pithik(鶏の血の赤色)と呼ばれる独特な朱色が特徴になっているラスムバ
ティッの色使いはジャワと中華の溶け合った文化が生み出したものだとバティッ専門家は
述べている。その朱色はラスムでしか得られず、他の土地でいくら真似しても同じ色合い
が得られないという話をしばしば耳にするが、それはラスムの水に含まれている含有物が
影響を与えているためだそうだ。描かれるモチーフも中華風のものとジャワ風のものが混
在している。

1479年にンプ サンティ・バドラが書いたスラッバドラサンティと題する古文書には、
1413年にチャンパ人Bi Nang Unの率いる中国船がラスムのルゴル海岸に来航し、ビー
・ナンウンの妻、Na Li Niがバティッ技法をラスムに伝えたことが記されている。[ 続く ]