「大郵便道路(100)」(2025年05月12日)

バティップシシラン製造作業所では雇い主が厳しい労働規則を適用し、そこで働くプリブ
ミ女性たちにむごい仕置きが行われたという話が公然の秘密になっている。1930年代
にそんな作業所で仕置きの結果死者が出たことから殺人事件の騒ぎになった。その家の中
には作業者を仕置きするための独房が設けられていたそうだ。

1970年代ごろまでラスムはスラカルタ・ヨグヤカルタ・プカロガン・バニュマス・チ
ルボンと並んで、6大バティッ産地のひとつに数えられていた。ラスムのバティッはジャ
ワ島だけでなく、たいへん広範な市場を持っていることを誇りにしていた。スマトラ・バ
リ・スラウェシからマラヤ半島のペナン・ジョホール・シンガポール、そして東アジア、
中でも日本が有力な市場になっていた。オランダの植民地スリナムに移住したジャワ人も
ラスムのバティッを好んだ。ラスムのバティッ生産者のひとりだったニオ・チュンヒエン
氏は父親が三カ月に一度、バティッ布を5百枚スリナムに送っていたと語っている。


モジョパヒッ王宮は1351年に、ラスムにプルディカンの恩典を与えた。プルディカン
とは王宮が納税を免除した部落や村を指している。この場合は部落や村でなくて王侯領に
なるのだろう。王がプルディカンのステータスを与える場合は、その土地にある聖所や遺
跡を世話させたり、珍しい特産品を王宮に貢納させることと引き換えになされるケースが
普通だった。

その時期、ハヤムルッ大王は実妹のデウィ・インドゥをブレ ラスムに任じていた。ヌガ
ラクルタガマの書にSri Rajasaduhitendudewiと記されている人物だ。実妹を統治者に任
じ、王宮への貢納を免除して現地の税収を別の用途に使わせるようにしたモジョパヒッ大
王のその方針から、いかに大王がラスムを重要視していたかが窺えるように思われる。

1740年の華人街騒乱の結果起こった華人とVOCの戦争でラスムは反VOC軍の根拠
地になり、VOCに向けられた攻勢はパティ〜クドゥス更にはスマランにまで広がって行
った。それを指導したのはラデン ガベイ ウィディヤニンラ(中国名ウイ・インキアッ)、
ラデン パンジ マルゴノ、タン・キーウィーなどの地元有力者で、その結果VOCは中部
ジャワの海岸部から一掃された。しかしVOCはマドゥラの軍勢を使って反撃に移り、最
終的に支配権を奪い返したのである。

1825〜30年のディポヌゴロ戦争のとき、ラスムに住む華人が山中のディポヌゴロ軍
を支援するためにシンガポールから武器を密輸入していた。その支援ルートにルンバン宮
廷から逃亡した女性貴族が介在しており、武器の受け渡しをその女性がアレンジしていた
のだ。最終的に東インド政庁はその武器支援ルートを暴くことに成功し、密輸入者は街中
で絞首刑に処せられた。

反乱戦争が起こらなくなったからと言って、ラスムの華人たちに密輸入をやめる理由など
ない。かれらは常に需要のあるアヘンを密輸入した。ラスム川沿いに建てられた倉庫の中
に、地下道を掘って川岸と往復できるようになっている建物がいまだに残されている。高
い塀で囲まれた建物の中で秘密のアヘン窟が運営されていた。しかしその地下道は蛇の棲
み処になるために既に埋められたそうで、建物内の一室に設けられた地下道へ入るための
穴だけが現存している。


現在のラスムの海岸は町から数キロ離れているが、昔の海岸線があった地区には木造船を
作るための造船作業場があった。今のルンバン県の海岸線はジャワ島造船産業のトップラ
ンクエリアだったのである。最盛期には5百人を超える船大工が手作業で伝統型木造船舶
を日々製造していた。現在も、ルンバン県東北部のクラガンやサランの沿岸部には、その
伝統が残されている。

大郵便道路はラスムの町を通過したあと、東方にそびえるラスム山を避けるために北の海
辺を目指して北上する。ブンド岬の西の付け根に達してから、道路は海岸線沿いに岬を回
って東側にあるクラガンに至る。その間およそ22キロの道のりだ。

ラスム市内に入って来た国道1号線も、標高806メートルのラスム山をほぼ真正面に見
ながらラスムのアルナルン北側を通過し、そこから3百メートルほど東にあるナスリヤ交
差点でほとんど直角に左折してラスムの市街を去っていく。[ 続く ]