「大郵便道路(101)」(2025年05月13日) ブンド岬の海岸に達した国道1号線はそこから先も海岸線と並んで延々と東方に伸びてい くが、われわれはいつの間にか中部ジャワ州から東ジャワ州に入っているという寸法だ。 クラガンから海岸線に沿って南東にほんの6キロ離れたサランは中部ジャワ州ルンバン県 の郡であり、そこが中部ジャワと東ジャワの州境になっている。 このクラガン海岸が1942年3月1日に日本軍ジャワ島進攻部隊の上陸した三カ所のひ とつだった。何もない、一年中静かなこの地方がそのときばかりは大騒ぎになったことだ ろう。全国の耳目からほとんど忘れ去られているこの地方で1981年に先史時代の遺物 が見つかり、しばらくはニュース種になったものの、ふたたび忘れ去られて何百年も昔か らそうだったように、この地方はまた静寂の中に沈んでいった。 サラン郡のカリパン村とカランマグ村には古代マタラム〜モジョパヒッ時代以来の歴史を 持つ造船業が残っていて、8軒の作業所で155人の船大工が生計を得ている。そのひと つ、1993年に会社登録を行ったジャティパガルヌサ社のオーナーは、ここで働いてい る船大工たちは図面を一切使わないと語った。昔ながらの道具を使って木の板を組み合わ せ、船を組み立てていく。火でチーク板を湾曲させ、船腹は20センチの鉄棒で板を密着 させる。船作りの技術は代々相伝されてきているのだ。 サランの手前にあるクラガンにも造船所はある。この地方一帯は1千年以上前からジャワ 島の造船センターのひとつになっていた。今でもプカロガン・バタン・パティ・ルンバン から東のトゥバンに至る各地の漁村から漁船の製造注文がこの一帯の造船作業所に入って 来る。 今の時代は底引き網漁船の需要に応じなければならず、またGPSや無線通信機を備える 必要性もあって、船大工たちは伝統工法だけで船を完成させることができない。船大工た ちのボヤキの中に、昔の船乗りはティテン航法だけを頼りに海に乗り出していったが、今 の連中は昔の航法を学ぼうともしないという言葉がしばしば混じる。ティテン航法とは星 や地形あるいは風などの自然現象から船の位置や目的地の方角を決める方式だ。確かにG PSがあれば、あの山は何山で、あの地形は何岬だ、などという会話は必要なくなるかも しれない。 ラスムの町から北上してブンド岬の海岸に向かう道路の西側にラスム郡ダスン村がある。 そこにはオランダ時代から造船所がひとつあり、1942年にやってきた日本軍はさらに もうふたつ造船施設を増やして、3ヵ所で地元民に木造船を製造させた。日本軍のインド ネシア統治方針の中に海上交通を奨励することが含まれていたのだ。日本軍は商船高等学 校を5都市に開校して船乗りの養成も行った。 ダスン村の老人のひとりは、オランダ時代に造船所で父親の手伝いをしていた話を物語っ てくれた。まだ9歳だったかれは父親に付いて作業場へ行き、父親の指図に従って作業を 行っていた。その当時、造船所では2百人くらいの作業者が働いており、たいへんな活況 を呈していた。オランダ人は木造船でなく船長30メートルを超える鉄製の船をそこで作 らせていた。鉄板は溶けた鉄くぎで接合していた。完成した船はバタヴィアへ送られ、イ ンドネシアの農産物を海外に送り出すのに使われた。 そのあと、日本軍がその造船所を運営するようになり、木造船をたくさん作るために造船 施設を2つ増やした。それらの造船施設の遺跡は今でもラスム川の岸辺から10メートル くらい中ほどにあって、川へ行けば見ることができる。長さ50メートルを超える三つの 船形の石土台の残骸がいまだに残っている。 1942年当時、そこは川岸であり、日本軍は6カ月ごとに川の泥をさらっていた。しか し日本軍が去ってからラスムの造船産業は火が消えてしまい、その造船施設も顧みられな くなった。ラスム川は浅くなり、通行する船も見られなくなった。 日本軍政時代に、クディリやスラバヤから逃亡したプリブミ反日活動家たちがダスンに集 まって地下拠点を作った。かれらの行った反日抵抗運動では、チュプの石油タンクを爆破 し、またダスンで作られた船を3隻沈めたという話も語られている。[ 続く ]