「西洋医学の導入(2)」(2025年05月13日) 東インドがオランダ王国の植民地になってからすぐ、政庁はヨーロッパ人子弟のための学 校制度を開始した。初等教育では Europeesche Lagere School 略称ELSがオープンし て、西洋人だけが教育を受けた。そのうちにオランダ統治機構の一部になっているプリブ ミ貴族や行政官の子弟にもヨーロッパ文明による教育を与えるのは善い効果があると判断 されて、一部のプリブミに門戸が開かれた。そこに開かれたチャンスに一部の華人も金を 使って子供を入れるようになった。19世紀を通して、プリブミ一般庶民への西洋式教育 はまったく顧みられていなかった。強いて挙げるなら、現地民への教育とは現地民をキリ スト教徒にする教育というのがVOC時代に立てられた方針であり、それが20世紀まで 続いていたと言うことができるかもしれない。 しかし現地民は自力で同胞の教育を行っていた。イスラム教をベースに踏まえた教育機関 としてプサントレン、ランガル、マドラサなどがある。1910年のデータでは、ジャワ 島にプサントレンが17,500、西スマトラには4,540のスラウがあると記録され ている。ミナンカバウでスラウと呼ばれる施設はジャワのランガルに類似するものだ。 東インド政庁がプリブミのために設けた学校は1910年に613校できており、1校2 クラスで、教育内容は読み書き算術だけだった。 東インド政庁は国民教育についての方針を1908年に変更した。原則としての人種差別 は廃止されて、西洋人向けだったELSなどの学校がプリブミの入学も受け入れることに なった。ところが、それまで入学の権利が認められていた者たちよりはるかに高額の学費 を、プリブミの入学希望者は納めさせられたのである。差別は本質的に続けられていたと いうことだろう。 高等教育は1860年にHoogere Burgerschool 略称HBSがバタヴィアに開かれ、15 年後にスラバヤ・スマラン・バンドゥンなどに波及していった。この普通科高等教育とは 別に、技術科学校・医師助手学校・軍人学校なども20世紀になってから開かれて、多様 化へと向かった。 1909年に開かれた法律学校は寮生の月謝が50フルデン、非寮生は15フルデンとい う、当時としては高い学費になっていた。ところがストヴィアはなんと、学費を徴収しな かったのである。学寮に入っても寮費はただ、実技学習に使う器具道具類も無料であり、 おまけに制服まで支給してくれた。後になってからは学生に奨学金まで与えられた。 ストヴィアが正式オープンする前、ヴェルテフレーデンの軍大病院に付属機関としてジャ ワ人医師養成クラスという教育コースが設けられたのがストヴィアの前身だ。政庁がジャ ワ人医師の養成をどれほど重要視したかということがそれらの現象に反映されているよう に思われる。 ストヴィアを卒業したプリブミ医師の卵が更にオランダの医科大学を卒業して医師の免状 を得たことを条件にして、オランダ東インド政庁ははじめて西洋人医師と同等の資格を与 えた。ストヴィア卒業生にオランダへの医学留学を認める決定は1904年に本国の植民 地大臣が出した。そうやって敷かれた路線に最初に乗ったストヴィア卒業生がアブドゥル ・リファイだった。 ところが、西洋人医師と同じ資格を植民地時代に得た最初のプリブミはマス・アスマウン だったのである。アブドゥル・リファイはオランダで記事を書くことに精を出している間 にアスマウンに追い抜かれてしまった。 1880年にマランで生まれたマス・アスマウンはスラカルタ貴族の出身であり、ラデン の称号を持っている。ストヴィアを卒業したかれはアムステルダム大学医学部に入学し、 つつがなく卒業して1908年に帰国した。ヨーロッパにいる間にかれはハンブルグの海 軍熱帯医薬研究所で数カ月間働いた。帰国した年にスラバヤでオランダ系プラナカンの娘 と結婚したようだ。 帰国してからかれは東インド植民地軍の軍医になり、イリアン駐在を命じられた。ところ が病気になったために退役し、オランダに移住して余生を送った。イリアンで身体を壊し たらしく、1917年にかれはオランダで逝去した。[ 続く ]