「大郵便道路(102)」(2025年05月14日)

鄭和提督はジャワ島北岸部でDempoawangあるいはDampuawangという名で呼ばれている。こ
のダンプアワンという言葉は鄭和個人の別称でなく、「海の英雄」という一般的な意味を
表している。サンスクリット語のdang puhawangに由来していて、「偉大なる船長」がそ
の語義だそうだ。人間が行う海上での営みに大きい意欲を示し、保護と発展に努める船乗
りにその尊称が与えられた。

ダンプアワンという言葉が使われた古いエピソードに、西暦紀元前230年の故事を語る
ストーリーがある。中国の雲南地方から海路、今のルンバン県の海岸にKie Seng Dhangの
率いるひとびとが渡来して上陸した。その地点はなんと、ルンバンの町から30キロほど
東にあるクラガンだったと言う。

そのひとびとの中のHang Sambadraの子孫がダンプアワンと綽名されたジャワ島最初の人
物を生み出した。Sie Ba HaあるいはSibahaと書かれる人物がジャワに出現した最初のダ
ンプアワンであり、このシバハはSie Ma Haと姉妹だった。7世紀にカリンガ王国を率い
たシマ女王がそのシマハだ。

シバハはラスム海域、ルシ湾、ジュパラ港の通商路を守護し安定させるために大いに働い
た。そのころムリア半島は島であり、ジュパラの港はジャワ島本土と切り離された島にで
きた港町だった。自分の王領内にある通商路を守護するために、シバハはやってくる賊の
船に戦いを挑み、一歩も引き下がるところがなかった。わが王領を荒らす者はまずわたし
を倒さなければならない。わたしを倒すことのできる男がわたしの夫になれる。

次いで中部ジャワ北海岸部に登場したダンプアワンがウイ・インキアッだ。マタラムスル
タン国時代に起こった1740年の華人街騒乱がバタヴィアからジャワ島一帯に飛び火し
て華人戦争に至った際、ラスムの華人軍とVOC軍の間で行われたゴドの戦闘でウイは戦
死した。


14世紀のモジョパヒッ王国が持った大海軍の中心がラスム〜クラガン〜トゥバン〜グル
シッ〜ボジョヌゴロ〜ジュパラ〜ブローラにかけての地域だった。そこで船が作られ、海
軍が養成された。王国のバックボーンを支えるラスムの重要性をハヤムルッ王は軽視しな
かった。かれは自分の実の妹であるデウィ インドゥをラスムの領主ブレ ラスムに任じた。
このブレ ラスムはRajasa Wardhanaを夫にした。ロジョソ・ワルドノは東南アジア海域の
各地で通商を行う船乗り大商人であり、海に雄飛する英雄として世に認められていた人物
である。

その時代にダンプアワンという言葉は使われなかったものの、本質は連綿として存在し続
けた。モジョパヒッ大海軍の部隊指揮官の昇進任命式はラスムで行われ、海軍兵士の選別
試験は砂浜での組打ち格闘を通して行われた。pantholanという名前で呼ばれるこの伝統
的な格闘ゲームはいまだに地元に遺されている。ダンプアワンの精神はモジョパヒッ海軍
の中心地で選別され養成される海軍兵士の心の中に時代を超えて生き続けたとルンバンの
地元歴史家は物語っている。

ラフルズは自著The History of Javaの中で、ジャワ人は優れた造船能力を持っていて、
ルンバンとグルシッが双璧を成していると書いた。ルンバンの後背地には上質のチーク林
が広がっており、巨木が潤沢に得られたために大型船舶を造るのに適していた。1808
年ごろ、ジャワ島で年間に8千8百本のチークが伐り出されていたが、そのうちの3千本
がルンバン地方のものだった。[ 続く ]