「西洋医学の導入(終)」(2025年05月15日)

バタヴィアでさえ、プリブミ一般庶民の住宅地区にはあまり医者がおらず、医者がいるの
はプリブミ社会のエリート地区に限られていた。たとえば今のクマヨラン地区に西洋医は
ひとりもおらず、せいぜいスネンやクラマッにいるだけで、病気が重くならなければそん
な所まで出かけることをしなかった。みんな自家製の薬草処方で済ませていたのだ。それ
でもバタヴィアの町中に住んでいれば、西洋医にかかることはまだ容易に行えたものの、
バタヴィアの辺縁部に住んでいれば西洋医という存在は縁遠い話になった。

1940年代のスネンやクラマッにドクトル ラティフやドクトル リム・スンチアンなど
数人の西洋医がいた。ドクトル ラティフが開業していたプラパタンの土地には今、ホテ
ルアルヤドゥタが建っている。この医師はヘラワティ・ディヤ夫人のご尊父だ。一般庶民
を対象にするチプトマグンクスモ病院がオープンしたのは1919年で、プリブミ住民に
対する開業医不足をカバーする一助になった。

医師が少なかったのと同様に、西洋医薬品を扱う薬局も数少なかった。パサルスネン・パ
サルバル・メンテン・グロドッなどにあるだけで、広いバタヴィアの他地域には一軒もな
かった。


それほど西洋医が稀な社会であれば、西洋医師ほど儲かる商売はないということになるに
ちがいあるまい。ドゥクン(呪術医)・シンシェ(漢方医)・タビブ(アラブ医)がどれほどい
ようと、世界制覇を果たした西洋文明の地位と権威を肌に感じていないアジア人はまずい
ないだろう。

20世紀にバタヴィアで開業したドクトル ファルケニールというオランダ人医師の話が
語られている。このドクトルの一家が住んで開業した邸宅は2万5千フルデンで建てられ
たものだとひとびとは噂し、ドクトルの長男は1万フルデンの毛布で寝ているとささやか
れた。下男下女が27人雇われて一人当たり2フルデンの給料が与えられた。つまり雇い
主のドクトルは毎月54フルデンを人件費に支払っていたことになる。そのころ54フル
デンという金額は、カンプンの並み程度の住宅をニ三軒購入できるくらいのものだった。

並み程度という意味は竹編み壁に草ぶき屋根という陋屋が足元にも寄れないクオリティの
家屋だ。このドクトルが患者からどのくらいの治療費を取っていたのかは書かれていない
ために不明だが、べらぼうに高ければ金持ちしか訪れないだろうからミリオネアになるの
は難しかっただろう。患者が納得できるそれなりの金額を大勢の人間から稼いでいたので
はないだろうか。


1942年にインドネシアの地からオランダ人を追い払った日本人も西洋医学を持ってき
たが、すべての病院を陸軍病院に変え、民衆に組織させた婦人会に病院運営を手伝わせた。
医薬品も軍用にして軍政機構が握ったために、民間で流通する医薬品が激減した。陸軍病
院で人体実験が行われたという話もイ_ア語ネット内に散見される。

その前の数十年間に西洋医術がプリブミ庶民になじまれるようになってきていたものが、
その三年半はまた昔の時代に復古したと語るインドネシア人もいる。おまけに日本軍はイ
ンドネシアの物資を調達しまくって、聖戦遂行を旗印にする物資欠乏時代をインドネシア
にもたらしたから、一般庶民は食べ物が欠乏して栄養不良になり、病気にかかりやすくな
った。衣料品も欠乏したために、豊かでない家庭ではドンゴロス袋やゴムシートで作った
服を着ていた。そんな素材だと熱くて多量の汗をかく。雑菌が繁殖し、虫が湧く方向への
急傾斜が起こる。不健康への悪循環は避けがたく、それに対処するための薬は不足し、体
力も弱まる一方。たとえそれが別の意図で始まったものだったにせよ、ジェノサイドの入
り口になったことにかわりはない。

日本軍政期に子供時代を送ったジャカルタ住民のひとりは、病気になった父親のために医
者から薬を買うよう命じられて、遠方の薬局へ買いに行った思い出を物語った。そのころ
ジャティヌガラに住んでいたかれは、薬を買うためにパサルバルのラッツカンプ薬局へ行
った。薬局の入り口には長蛇の列ができており、その列に並んで順番が来るのを待った。

数時間後にやっと自分の順番になったとき、求める薬の名前と数を言ったところ、この錠
剤はひとり4個しか買えないと言われた。結局、必要としている数の数分の一しか手に入
らなかったそうだ。当時の医薬品不足を象徴するような話だ。[ 完 ]