「カリブサル」(2025年05月16日)

バタヴィアのカリブサルは北のパサルイカンとバタヴィア城市南縁を両端にする水路であ
り、もともとはチリウン川の支流のひとつだった。ジャヤカルタがVOCに征服される前、
その水流がチリウン川と呼ばれていたので、ボゴールの丘陵地帯から下って来る水流の本
流がそれだと考えられていたのだろう。

スンダクラパの町がどこに位置していたのかよくわからないものの、その時代には都のパ
クワンとカラパ間の街道がチリウン川になっていたから、ジャヤカルタの町がカラパと同
じ位置にあったのであれば、それが本流であるのに相違あるまい。

ジャヤカルタの町はその水流の西側に設けられていた。VOCに征服されたあと、ジャヤ
カルタの町はバタヴィアの町の西半分になったようだ。だとすれば、東半分はVOCが新
たに作ったということになる。しかしチリウン川の東側をジャヤカルタの支配者は外来者
の居住地区に指定していたから、北の海寄りの地区は人間の居住地域になっていたはずだ。

その海岸にVOCが作った小さい商館をJPクーンは要塞に作り替え、そのあと大改装を
行って巨大な水城に仕立て上げた。ダンデルスが撤去させるまで、バタヴィア城はバタヴ
ィア城市の東北端にそびえ立ってVOCの威風を誇示していた。


インドネシア語の川/河にはsungaiとkaliがある。sungaiが使われるのは自然が作った大
きい河で、小規模なものや人工的なものはkaliが使われる傾向が高いそうだが、ブタウィ
人はあらゆる川をカリと呼んでいて、ジャカルタを流れる川はすべてカリの名称が付けら
れている。もちろん、ブタウィ人でない場合はス~ガイチリウンと呼ぶインドネシア人も
いるわけで、それは個人の自由だ。


カリブサルの語源はオランダ語のde Groote Rivierだとされている。この名称が使われ始
めたのは城市内チリウン川の川底均しと川の直線化工事が行われてからのことだという解
説が見られる。その工事は1631〜32年にジャック・スぺクス第7代総督の命令で行
われたものだ。その時期まで、チリウン川は自然が作ったままの姿形をしていた。

バタヴィア城市の街が出来上がったとき、十数本の運河が町の中を縦横に通っていた。運
河は水上交通路の役割をも担い、カリブサルがその心臓部になった。大量の物資や重量物
の運搬は水上のほうが効率よく行えたようだ、船の修理作業はカリブサルをはさんでバタ
ヴィア城の対岸にあるVOC造船所で行われた。

しかし絶えざる泥土堆積が運河を狭くし、その一方で技術の発達によって船の大型化が進
み、運河を走る船はそのうちに馬や奴隷が引いて進む方式に変わって行った。


バタヴィア城市の南部からカリブサルにつながってくる上流の部分はレイスヴェイクから
城市に入る南側の大門までの流域で、やはりジャヤカルタ時代はチリウン川と呼ばれてい
たのだが、こちらの方もカリブサルの工事から20年くらい後に同じような工事が行われ
て直線の運河になった。今のガジャマダ通りとハヤムルッ通りにはさまれた運河だ。

こちらの工事は第2代カピタンチナのプア・ベンガンPhoa Beng Gan(Phoa Bing Gam 潘
明岩甲)が引き受けて行った。それが完成したあと、その運河はBingamvaartと呼ばれて
いたのだが、そのうちにサトウキビやトウモロコシをすりつぶしたり、木を製材したり、
あるいは火薬を作るために運河の両岸に水車が立ち並んだので、オランダ人はmolenvliet
と呼ぶようになった。

バタヴィア城市内のカリブサルに面した地区は東側も西側も一等地とされていたようだ。
カリブサル沿いには教会や邸宅が並び、東地区では市庁舎が教会と道路を隔てて奥のブロ
ックに設けられ、市庁舎前広場が儀典広場として北のバタヴィア城の大門と対面していた。
また、パサルもカリブサルに近い所に開かれた。城市内パサルは野菜パサル・バナナパサ
ル・鶏パサル・米パサルなどの種類があった。

19世紀初めにダンデルスがバタヴィアの政治軍事センターをバタヴィア城市からヴェル
テフレーデンに移したあと、旧バタヴィア城市はビジネスセンターになり、さまざまな企
業オフィスが立ち並んだ。居住エリアはヴェルテフレーデンをはじめ城市の外に移された
から、旧バタヴィア城市はビジネス地区になって、勤め人はモーレンフリート脇の道を朝
夕に通勤し、夜は人間のほとんどいない幽霊街になった。

20世紀初めに旧バタヴィア城市を訪れたオランダ人観光客のひとりは、栄光あるバタヴ
ィア城市の姿を嘆きと共に書き記した。
「市街はとても汚く、ペンキはあちこちが?げ落ち、崩れかかった建物もある。まるでス
ラム街だ。ヴェルテフレーデンの豪華な邸宅に住んでいる富裕者たちがこの街のこんな状
態に満足しているなんて、とてもわれわれの理解の及ぶところではない。」