「大郵便道路(104)」(2025年05月16日) 1276年以来、クビライ汗はクルトヌゴロに対し、北京に伺候せよと命じる使節を少な くとも三度派遣した。中国皇帝への朝貢を行えと言うのである。使者は毎回同じ人物だっ たようだ。クビライの使節「孟[王其]」が最後にやってきた1289年、使者の横柄な態 度にクルトヌゴロは怒りを爆発させ、ジャワの大王は孟[王其]の顔を傷つけて中国へ送り 返したのである。その侮辱にこんどはクビライ汗が怒る番だった。中国皇帝は傲慢なジャ ワをひねりつぶしてしまえと軍に命令し、モンゴル・中華・タルタルの軍勢2万人を1千 隻の船に乗せて南洋に派遣した。 しかし実際にジャワ島に向かった元軍の兵力は1万人で、使われた船は5百隻だったらし い。船隊は中国の泉州を発進してチャンパに向かい、ナトゥナ諸島で河川用の小型船舶を 造ってからジャワ海に入った。トゥバンの海域に到着したのは1293年3月22日だっ た。戦闘部隊はトゥバンの港に上陸して町を掠奪し、川と陸の二軍に分かれて内陸部のシ ゴサリを目指した。ところが元軍戦闘部隊が目にしたのは、焼け落ちたシゴサリの廃墟だ ったのである。 シゴサリ王国の支配下にあったクディリ王国が1292年に反乱を起こしてシゴサリを滅 ぼし、クルトヌゴロ大王を死に追いやったのだ。ジャワの王権はクディリ王ジョヨカッワ ンの手に移っていた。 クルトヌゴロ大王の婿ラデン ウィジョヨはクディリの謀反から九死に一生を得た。かれ はマドゥラ島に逃れてアディパティの保護を受け、その口添えでジョヨカッワンから赦し を与えられてモジョパヒッの森に住み、その地域を開拓した。 そんな状況のときに元軍がジャワ島にやってきて北海岸部を包囲し、その一部がトゥバン に上陸したのだ。元軍の到来というチャンスを利用してウィジョヨは舅の仇討ちを計画し た。ウィジョヨは元軍をクディリに導いてジョヨカッワンを攻撃させたのである。ジョヨ カッワンは敗れて捕らえられ、ウジュンガル(今のスラバヤ)の牢獄に投じられた。 それに成功した後、モジョパヒッ軍を率いるウィジョヨは戦勝に酔っている元軍を欺き、 攻勢をかけて元軍を海に追い落とした。元軍はほうほうの態でジャワ島から逃亡した。そ のウィジョヨがモジョパヒッ王国を興した初代の大王だ。 トゥバンという土地は元々カンバンプティという地名だった。ウィジョヨを助けてモジョ パヒッ建国に大いに貢献したロンゴラウェがカンバンプティの領主に任じられてアディパ ティモンチョヌゴロトゥバンの官位名をたまわったとき、カンバンプティがトゥバンに変 わった。その地名の変化について解説している情報がどこにもないそうだ。 その日がトゥバン県の創設記念日になったものの、この話を書き遺した三つの古文書には それぞれ異なる日付が記されている。そのひとつは1293年11月2日にそれが行われ たと述べていて、いまはその日付が有力視されている。 ロンゴラウェの活躍があってこそ成立したモジョパヒッ王国だというのに、首相の地位を 与えるどころか、大王はかれを一地方領主に任じたのである。ウィジョヨのそんな扱いに ロンゴラウェの不満がくすぶり、結局反乱に至ってロンゴラウェは討伐されてしまう。 真の男の美学を具現する、戦場における勇猛な大戦士の姿は、王国の宮廷政治の中に場を 得ることができなかった。しかしこの豪傑の姿はジャワ人の英雄観の中に生き残った。イ ンドネシア独立革命期に共和国軍の中にその名を掲げる部隊が出現したことがそれを証明 している。[ 続く ]