「大郵便道路(105)」(2025年05月17日) ジャワ島北岸の他の港町と同様に、トゥバンも陸地が北へ広がって行った。そのために、 海岸を掘るとさまざまな陶器が出土する。破片から完ぺきなものまで、国産から外国産の ものまで、いやそれどころか、4本アームの錨が出土したことさえある。カンバンプティ 博物館に保存されているその錨は元寇の際の置き土産だそうだ。 その鉄製の錨は高さ182センチ、アーム部の差渡しは100センチで、四つのアームの 先端と錨の頭部が鉄製の鎖でつながれている。 西暦11世紀後半に作られたカンバンプティの碑文、あるいはサカ歴1277年に行われ た戦争について述べている別の碑文などが遺されている。後者はこの町の名称が元々はト ゥバンでなくTubaであったことを示している。元や明の時代の中国の史書にトゥバンは杜 並足、杜板、賭班などの名称で登場している。 トゥバンの町の浜辺を通るスディルマン通り(国道17号線)の南側に、海に面して建っ ている中華寺院のKwan Sing Bio(関聖廟)は東ジャワ州最古のものと言われている。建 造年として1773年あるいは1714年などと諸説あるものの、プラムディヤはその数 世紀前に建てられたとしか思えないと述べている。かつてその寺院を調査したフランス人 歴史学者がかれに、クビライ汗の皇帝印をそこで見たと語ったそうだ。もしそうであれば、 元寇の際に元軍がトゥバンに上陸した時期に簡素な礼拝施設がそこに建てられた可能性が ある。 今の寺院の屋根は二匹の龍で飾られ、大門の屋根の上には巨大なカニが乗って海を眺めて いる。最後の改装工事が行われたのは1974年だったそうだ。 ジャワ島イスラム化初期の時代、トゥバンはアディパティが統治していた。その息子がス ナン カリジャガと呼ばれた人物だ。そのアディパティがさまざまな超能力を使うことが できたという話を古代ジャワ文学が物語っている。 1599年ごろ、バンテンでスパイスをたっぷり積み込んだファンネックとヴァルヴェイ クの船隊のうちの4隻が、オランダに帰還する途中でトゥバンに寄港した。それがトゥバ ンを訪れた最初のオランダ人だった。トゥバンのブパティはオランダ人を歓待した。オラ ンダ人はトゥバンのブパティを象に乗った勇ましい人物だと報告書に記した。 トゥバンを離れて東に75キロ、大郵便道路はSidayuあるいはSedayuという名の町に達す る。その間に郵便馬車の馬を交換するためのステーションがたくさん設けられていた。ス ログントン〜パキス〜ブダハン〜スサン〜サンバラン〜ララガン〜デケッ〜グミニン〜ア ンバンアンバン〜等々。しかし今、それらの土地はラモガン県海岸部の寒村や部落になっ ていて、重要な役割を担うこともなくなり、おまけに地図の中にさえ出てこない。 シダユの東側をブガワンソロが海に向かって広大なデルタ地帯を形成し、大湿原では淡水 と海水の場所が入り混じり、密生するマングローブ林が道路作りを拒絶した。シダユから 大郵便道路は海岸に向かわず、まっすぐ南下してグルシッの町へと向かった。 現在のシダユとトゥバンのちょうど中間点くらいの位置に古いシダユの町Sidayulawasが ある。ラモガン県ブロンドン郡Sedayulawas村が今の公式名称だ。ファン ネックとヴァル ヴェイクの船隊がヌサンタラを訪れる2年前にやってきたオランダ船がその海域で現地住 民の船と激しい戦闘を行った。その噂は即座にジャワ島北岸地域に広まり、オランダ人が 粗野で残虐な人間であることが知れ渡った。その事件とは関係なく、マドゥラ海域でもオ ランダ人は現地住民の船隊と交戦している。[ 続く ]