「借りても返さない(2)」(2025年05月18日) 日本語の場合はどうだろうか?goo辞書によれば、借用語とは「もともとは他の言語から 取り入れられた語ではあっても、その言語に同化し、全く日常語化してしまっているよう な語」であり、外来語とは「他の言語から借用し、自国語と同様に使用するようになった 語」となっている。そして借用語が外来語の類語として示されていた。[補説]として「外 来語と外国語との区別は主観的なもので、個人によって異なることがある」と述べられて いる。 ちなみに借入語を探してみたが、項目として採り挙げられていなかった。日本国語辞典の 世界はもうこの言葉を墓に埋めたにちがいあるまい。 借用というのは「借りて使うこと。使うために借りること。」であり、「借りる」の語義 は次のように記されている。 1 あとで返す約束で、人の物を一時的に自分のもののように使う。 2 使用料を払って一定の期間自分の用に使う。 3 他より知恵・力などの助けを受ける。 4 ある目的のために一時的に他の物を利用する。 1、3、4の場合は借りることへの対価が定義の中に入っていない。つまり対価は自由意 志で無視できることを、言語論理上は意味していることになる。4などは、「他の物」の 所有権保有者に許可を得ることすら条件外に置かれている。 これではうかうかと他人に、たとえそれが親しい友人であっても、物を貸すことができな いではないか。貸してくれと言われて何かを貸したはいいが、いつまでたっても返そうと しない人間は昔からいた。 昔はそういう劣等人格者の側に明らかに非があるようにわたしは感じていたのだが、返す ことを前提にしないで受け取ることも「借りる」と言うことができるのが現代日本語の言 語ロジックであるのなら、これはもう人格の問題から離れて純粋に言語文化と文化ビヘイ ビアの問題になりかねない。つまり人格が高貴であろうとなかろうと、何かを貸してくれ と相手に頼み、相手からその何かを受け取ったとき、つまり借りたときに相手が「返せよ」 と言わなかったなら、その何かの返却は借りた側の自由裁量に委ねられることになるとい う結論を上のロジックから引き出すことが可能なのではあるまいか。 日本古来の美風はこのようにしてわれわれの周囲から蒸発していくのだろう。外国から摂 取した語彙を「借りる」という言葉で表現するようになったとき、日本人の知性と精神は その道を堂々と胸を張って歩きはじめたと言えるかもしれない。 世界の言語学界がloan wordをオーソライズしたときにインドネシアの言語学者の中にも その直訳であるkata pinjamanを使う動きがもちろん起こった。しかし最終的にインドネ シアの学術オーソリティはそれを言語学の術語として認めず、kata serapanという語を術 語として採用したのである。インドネシアの学術オーソリティがkata pinjamanという術 語を拒否した背景をわたしは次のように憶測した。 言うまでもなく、マレーシアが認めたpinjamという語彙はマレーシア語もインドネシア語 も共通に持っている。なにしろ、ほとんどそっくりの言語なのだ。ただしそっくりという 形容の範囲は語義・語法・語感・発音などの要素にまで及んでいない。「そっくり」とい う言葉は同じ語彙がたくさんあるという見えがかり現象を指しているようだ。 インドネシア語のpinjamの語義をKBBIで調べたところ、次のような情報が得られた。 インドネシア語では、pinjamという基語の形でこの言葉を使うのは標準外とされていて、 動詞meminjamが標準語法になっている。そして語義はこう書かれていた。 memakai barang (uang dan sebagainya) orang lain untuk waktu tertentu (kalau sudah sampai waktunya harus dikembalikan) [ 続く ]