「借りても返さない(3)」(2025年05月19日)

書かれているのはただそれだけであり、第二義も第三義も存在しないのである。インドネ
シア人がピンジャムという言葉を述べるとき、その言語ロジックは返却・返済が絶対条件
になっているのだ。(言葉通りにインドネシア人が行動するかどうかは文化ビヘイビアの
問題であって、行動から語義を推測するのは不適切だとわたしは思う。)

その一方で返すものに何かを上乗せしたり、借りたことへの対価を添える行為は条件にさ
れていない。術語に使われているpinjamanという語形の場合の語義をKBBIは次のよう
に示している。yang dipinjam atau dipinjamkan (barang, uang, dan sebagainya):


ちなみにマレーシアの官製国語辞典カムスデワンはpinjamの語義をほぼイギリスの諸辞典
の中のborrowの語義に沿って解説しており、返済問題とは別にkata pinjamanもその項目
内にperkataan yg diambil drpd bahasa asingという語義が記されていた。

ならばKBBIはkata pinjamanという言葉を否認しているのかというとそうでもなくて、
kataの項目内にkata pinjaman はkata yang dipinjam dari bahasa lain dan kemudian 
disesuaikan dengan kaidah bahasa sendiriという解説を掲載している。KBBIにある
pinjamの語義をそこに重ね合わせるとこの解説は意味不明になりそうだ。

もちろんkata serapanも採り上げられていて、語義はkata yang diserap dari bahasa 
lainとなっている。

インドネシアの学術オーソリティがpinjamを拒否してserapを選択した理由の説明は、借
りるとか返すとかの問題よりもずっと言語学的な根拠が示されていた。その選択に関する
理由説明の中心に置かれていたのは、インドネシア語は単に外国の語彙だけでなく接辞や
変化形をも併せて摂りこむのであり、外国の語彙がインドネシア語に吸収されたあとは、
その語彙がオリジナルのインドネシア語彙と同じように扱われる、という内容になってい
たのである。

自己所有に至っていない状態を示すpinjamanという言葉よりも自分の中に吸収された状態
を示すserapanのほうがニュアンス的に実態に近いという語感の問題がそこのポイントだ
ったのかもしれない。もちろん、pinjamanを使わないのは、インドネシア側がそれを返却
することができないからだという余談としての表明もなされていた。


外国の語彙を借用語にすることを述べるに際して、どんな動詞が使われるのだろうか?イ
ンドネシア語ではmenyerapや「拾う」を意味するmemungutなどが使われているのだが、マ
レーシアではmeminjamが使われるのだろうか?日本人はまだ「借りる」という語を使わな
いだろうと思うが、そのうちに:
「日本語に元々なかったその概念を述べるのにその地方の日本人はモンゴル語のXXXXとい
う言葉を借りて日常会話に使っていた」というような表現が普通になる日がやってくるの
だろうか?この場合の「借りる」は、「講演者はゲーテの言葉を借りて聴衆の質問に答え
た」の「借りる」と意味が違っているようにわたしには感じられるのである。

モンゴル語を借りるのは借用語にするという意味で使われているものの、この段階ではま
だ日本語に完全に同化していないのだから、厳密であろうとするなら「借用語にする」が
使えず、その形成プロセス内にある状態を示すために「借りる」が使われることになるだ
ろうとわたしには思われるのである。一方、ゲーテの言葉を借りるのは本人に無断でその
者の所有物を利用することだ。

誤解を避けるために付け加えておきたいのは、インドネシア人のすべてがローンワードの
官製対応語であるカタスラパンを使っていないという事実だ。知識層から学生まで含めて、
たくさんのインドネシア人がローンワードの直訳であるカタピンジャマンを現実に使って
いるのである。その理由は人それぞれなのだろうが、「お上の心、国民知らず」という現
象の起こらない国はないという世の鉄則がそこにも反映されているかのようだ。[ 続く ]