「大郵便道路(107)」(2025年05月19日) マドゥラ海峡に臨む古い港町グルシッはマドゥラ島の西南端に位置するカマルの町の対岸 にあるが、グルシッとスラバヤの岬が作り出すラモン湾の東部を扼す形でスラバヤが北に せり出しているため、カマルの港はスラバヤとの間の渡海港になっていた。 古文書に記されているHujung Galuhという地名が現在のスラバヤと考えられている。ジャ ワ語のHujung(発音はウジュン)は岬を意味しており、インドネシア語のujungの語義の 中にもその意味が含まれている。しかしイ_ア語で岬を言う場合はtanjungが使われるの が普通になっていて、スラバヤ港がTanjung Perakと呼ばれているのはGaluhが銀を意味し ていたからそうなったのだという解説が見つかった。そうするとタンジュンぺラッという スラバヤ港の異名はウジュンガルの直訳ということになる。 昔から外国人はグルシッという地名をGrissee, Gressick, Gesih, Geresih, Qarr-Syaik, Gerawaseなどとさまざまに書いていた。Grisseeという綴りをネット内でよく見かけるこ とがあるものの、それがGresikの別綴りというわけではなさそうだ。Grisseeはオランダ 人がグルシッ港をそう呼んでいたのだとイ_ア語AIが教えてくれたものの、VOCの文書 にそう書かれていたのかと尋ねると、VOCはGresikと書いていたという回答が来た。ど うも顔を洗わなければならないようだ。Grisseeという綴りをオランダ式に発音すると多 分フリッセになるのだろうが、英語式に読めばグリッシーになるのではあるまいか。英語 式のほうがジャワ人の発音により近いような気がする。 ラフルズのThe History of Javaにグルシッの語源はgiri gisikであると書かれている。 サンスクリット語でギリギシッとは海岸の山あるいは丘を意味しており、グルシッの地形 がそのようなものになっていたためにそう呼ばれたのだろう。 14世紀ごろ、この港町はマルクの香料諸島からスマトラ〜インド〜ペルシャへ向かう船 が寄港するジャワの要港のひとつになっていた。フローレス海からジャワ海に入り、マラ カ海峡を抜け、ベンガル湾を通ってコロマンデル海岸やマラバル海岸に寄港し、グジャラ ートを経てペルシャに至る航路をたどるほとんどの船にとっての重要な寄港地になってい たのだ。 ポルトガル船はその航路を逆にたどって香料諸島を探し当てた。オランダ船がヌサンタラ にやってくるころもその航路は域内の幹線航路になっていた。VOC時代が始まるまでの グルシッという商港の発展はその幹線航路がもたらしたものだ。 グルシッは北側にブガワンソロの河口、南側にブランタス川の河口を擁していて、ジャワ 島中部東部の内陸部に向かうための地理的条件を備えていたことも、商港としての繁栄を 下支えする要件のひとつになっていたように思われる。 エルランガ王の時代(928〜1049年)にはグルシッ住民数万人の中で読み書きので きる人数のほうが多かったと西洋人学者は述べている。オランダ植民地時代はその正反対 になったそうだ。多分そんな古代からグルシッで真鍮や青銅を使う金属加工産業が発展し たと思われる。ダンデルス総督の時代にグルシッは銃砲の製造拠点になった。一方、銃砲 弾をダンデルスはスマランで作らせた。 グルシッでも、元の軍船団が置いて行った錨が1985年に見つかっている。トゥバンの ものと同様の4本アームで、柄の長さは3.5メートルある。 元のジャワ島侵攻軍はグルシッに上陸してパチェアン村に司令部を置いたが、そのパチェ アン村は町の発展の中に呑み込まれて今や影も形もないとプラムディヤは書いている。イ _ア語インターネットAIによればパチェアンはスラバヤ市内の川の名前だそうだ。AIはネ ット内の情報がすべてなのだから、このような齟齬は起こって当然だろう。 元のジャワ島侵攻軍は全軍がトゥバンに上陸したのでなく、グルシッやスラバヤなどに分 散したようだ。[ 続く ]