「大郵便道路(108)」(2025年05月20日)

モジョパヒッ王国時代のころから、ジャワの大きい商港が列挙されるとき、グルシッの名
前がそこに入るのが常だった。15世紀半ばごろにはヌサンタラで初の女性シャバンダル
(港務長官)が誕生して、グルシッ港の管理運営に采配を振るった。チャンパの出身とい
う説もあるニャイ アグン ピナティという名のその女性はモジョパヒッ王国の上流婦人で
あり、モジョパヒッ王宮とも関りを持ち、グルシッに領地を与えられた。

シャバンダルの役職に任じられる人物は世間から大商人として認められているのが一般的
な姿だったから、かの女も大商人として豊かな財をたくわえたはずだ。その財力と気高い
公徳心でグルシッの町の建設に多大な貢献をしたとされている。

16世紀のグルシッ港の通商交易の盛んな様子をトメ・ピレスも書き遺した。港にバンダ、
グジャラート、シアム、中国の船が入っているのをかれは目の当たりにしたそうだ。

グルシッにはマウラナ・マリッ・イブラヒムの墓所があり、参詣者も数多い。スナン グ
ルシッと呼ばれて9聖人の先駆者に奉られたマリッ・イブラヒムはジャワ島におけるイス
ラム布教運動の初期にイスラム商人たちがかれを運動の第一人者に位置付けたという話に
なっている。その墓碑にはスナン グルシッが「822年のラビウルアワル月第2日に没
した」と彫り込まれていて、この町のたどった歴史を物語っている。ヒジュラ暦822年
は西暦1419年だ。


1481年ごろグルシッのクボマス地区にプサントレンを開いたムハンマッ・アイヌル・
ヤキンが1487年にギリ・クダトン王国を興してモジョパヒッの支配から独立した。

このギリ王国はイスラムのウラマたちが設けたイスラム王国であり、スナンギリと呼ばれ
て9聖人のひとりに加えられたアイヌル・ヤキンが1506年に没してからも歴代の王が
ヌサンタラのイスラム化のために軍勢をあちこちに派遣した。しかしジャワ島の覇権を追
い求めるイスラムマタラム国のスルタンアグンに征服されて、1636年にマタラムの北
海岸部の領地のひとつになる運命をたどった。ギリはクダトンでなくなり、パヌンバハン
を領主に戴くマタラムスルタン国の一地方になり下がったのである。

マタラムがVOCにジャワ島北海岸部を譲渡してから、1743年にVOCはレシデン統
治区による統治行政の形をグルシッに施行した。VOCは18世紀半ばごろにシダユとグ
ルシッに石造りの要塞を築いて支配権を確定させ、それ以来、グルシッをめぐって行われ
る戦争はほとんどなくなったそうだ。

反ナポレオン同盟軍の攻撃目標になっていたジャワ島で、ダンデルスがジャワ島にやって
くる前年にグルシッがその被害を受けた。イギリス船隊がグルシッ港を襲撃して港湾施設
を破壊し、またその海域にいたハーツィンク指揮下のオランダ船隊にも襲いかかったので
ある。

19世紀を通して、グルシッ港の繁栄は続いた。ところが1911年にその繁栄にかげり
が出始めたのだ。スラバヤ港が最新鋭港に改装されたために、グルシッに入る船の数に減
少が起こった。


グルシッにも旧市街がある。市内のWahid Hasyim, Raden Santri, Basuki Rachmat, HOS 
Cokroaminoto, Nyi Ageng Arem-aremの各通りおよびKampung Kemasanが古いグルシッの町
の中心部を形成した。グルシッのアルナルン北端とグルシッ港を結ぶ大通りの周辺一帯が
このエリアだ。

この地区には西洋風や中華風の様式を反映させた建物が1898年から1900年代最初
の10年間に続々と建てられて街区を埋めた。もっと古い建物の中には1800年ごろに
建てられたものもある。県のデータはヘリテッジ級の建物が市内におよそ6百軒あること
を示している。[ 続く ]