「大郵便道路(109)」(2025年05月21日) ニャイ アグン アルマルム通りを北上すると左側にGang IIIが見つかる。その小路への入 り口にゲートが建てられている。そのGerbang Kemasanと書かれたアーチ型のガプラがカ ンプンクマサンの入り口ということらしい。 19世紀のカンプンクマサンはヨーロッパ人とプリブミ上流層の住むエリート地域だった。 成功したプリブミ商工業者が大きな邸宅を建てて住んだ地区であり、ヨーロッパ・中華・ 中東風の様式が混ざった、さまざまなスタイルの邸宅をそこで目にすることができる。 うなるくらいの金を持っていたエリート地区住民たちは豊かさを誇示しようとして豪邸を 建てた。2階建ての家屋に背の高いドアや窓、レンガの壁とタイル張りの床。邸宅の住人 たちはたいてい、ドアや窓を赤く塗った。中には一面が壁になっているところにダミーの 窓を付けた家もあった。何のためにそんなことをしたのだろうか?侵入盗対策だという解 説も見られる。 ある一軒の豪邸の入り口にH Djaenudin BH Oemarと書かれた小さいガプラが建っていた。 ハジ ジャエヌディン ビン ハジ ウマルとはハジ ウマルの息子であるハジ ジャエヌディ ンを意味している。アラブの慣習では、一般庶民は姓を持たず、ひとりひとりは自分の本 人名と父親の名前を自分のフルネームとして使う。その際に父親名の前に男児はbin、女 児はbintiを付けるから、タロー ビン ゴンベエとかハナコ ビンティ ゴンベエというよ うな名前になっていた。 1千平米の土地に建てられた8百平米のその邸宅はいま、ハジ ジャエヌディンの子孫の 女性を妻にした男性の一家が1972年から住んでいる。その建物もグルシッ旧市街のご 他聞にもれない豪壮な住居であり、外がカンカン照りであっても家の中は涼しい。ご主人 はその建物の保存に力を入れていて、外観が変わるような修復を決してしないそうだ。白 い壁に赤い扉と窓を持つその邸宅は、昔ながらの姿を依然として保っている。 ご当主はグルシッの旧市街を訪れる観光客が増加しているという話を語った。ジャワ島他 地方からの観光客ばかりか、外国人観光客の姿も時おり見られる。たいてい歴史に興味を 持つひとたちが古い街区の持つエキゾチシズムを愛でるためにやってくる。あるいは写真 を趣味にするひとたちが、珍しい被写体を求めてやってくる。 カンプンクマサンの名前の由来をハジ ジャエヌディンの子孫のひとりがこのように物語 ってくれた。そのカンプンにバッ リオンという名の黄金細工師が住んでいた。その技術 の巧みさはグルシッに並ぶ者がいない。そのために、そのカンプンをひとびとはクマサン と呼んだ。keemasan → kemasanということらしい。しかしバッ リオンが亡くなると、村 は寂れた。1855年にハジ ウマルがそのカンプンに土地を買って家を建てた。ハジ ウ マルは皮革加工を職業にしていた。かれは事業に成功し、そのカンプンの2百メートルほ どの通り沿いに子供たちのための家を建てた。 グルシッの皮革加工産業の黄金時代は1896〜1916年だった。ジャワ島の大都市か ら皮革製品の注文がグルシッにどんどん送られてきた。ハジ ウマルの子孫も祖先の家業 に関わるビジネス書類をいまだに保管していて、その書類を調べたところ、バタヴィアの パサルバルを住所にする商店からの注文も散見された。 ハジ ウマルは皮革だけでなく、ツバメの巣の商売も行った。二階建ての家屋の上のフロ アをがらんどうにし、ツバメが出入りする穴をあけて中に巣を作るようにしつらえる。そ んな二階に窓の必要性はないし、窓があれば盗人に出入りの機会を与えるだけだ。なにし ろツバメの巣は高価なのだから。しかし二階に窓がない家屋というのは、通行人の目から 見れば異様に映るのである。ダミーの窓が作られる妥当な理由がそこにあったのだ。 グルシッで盛んになった工業はさまざまで、皮革をはじめ宝石・真鍮・鉄などの加工、彫 刻、箱作り、縫製品などがメインを占めた。[ 続く ]