「大郵便道路(111)」(2025年05月23日)

< スラバヤ Surabaya >
大郵便道路はマドゥラ海峡を左に見ながら、大昔から先祖代々営まれてきたバンデン魚の
養殖池が広がる地域を南に7キロ下ってタンバッラゴンに至り、そこで東に向きを変えて
10キロ進めばスラバヤに達する。タンバッラゴンは今やスラバヤ市内の郡になっていて、
大郵便道路はそこから一直線でモロクルンバガン地区に入って行く。今その道はスラバヤ
市内グルシッ通りという名前だ。

モロクルンバガン地区を通過したグルシッ通りの端は左に折れて港へ向かう道路と右に進
んでジュンバタンメラからクンバンジュプンという旧スラバヤ中心地区に入って行く道に
分かれる。ジュンバタンメラがまたいでいる川がカリマスであり、スラバヤ市内を貫通し
ているカリマスが長い歳月をかけてウジュンガルの岬を作った。カリマスはジャワ島第二
の長江であるブランタス川の支流であり、昔はこのカリマスを通って川を遡行すればクデ
ィリに達することができたそうだ。

19世紀の郵便馬車は当時のスラバヤ中心地区へと進んだはずだ。そのころ、スラバヤの
レシデン官邸はジュンバタンメラの西岸に建っていたのだから。そこを越えたあと、郵便
馬車はウォノクロモ地区へと南下するのだが、現代のスラバヤ市街図からそのルートを探
してみても容易に推察できそうにない。


スラバヤという地名の由来も諸説ある。まず、チュラバヤという言葉が変化したという説
によれば、古代にブランタス川の下流に渡しがあった。その村の名前がチュラバヤであり、
それがスラバヤになったというものだ。1358年に作られたトロウラン第1碑文やンプ 
プラパンチャ著作のNegarakertagamaにそう記されているそうだが、しかしンプ プラパン
チャは著作の中でハヤムルッ大王が1365年に行った視察旅行を物語る際にスラバヤを
Surabhayaと綴っている。

別の説はアディパティJayengronoとSawunggalingの決闘に関わる伝説で、モジョパヒッ王
国が誕生した初期のころに起こったできごととして語り伝えられている。元軍を追い払っ
たウィジョヨはウジュンガルに王宮を建てた。その地方の領主としてジャユンロノをアデ
ィパティに任命したものの、ウジュンガルの繁栄は年を追って盛り上がり、王都モジョパ
ヒッの隆盛をしのぐほどになった。

大王はその状態を乱のもとと考え、ジャユンロノを征伐することに決めてサウンガリンに
その命令を降した。sura(サメ)の術の達人であるサウンガリンとbuaya(ワニ)の術を
マスターしたジャユンロノはカリマス川で対決し、7日7晩戦った末に双方力尽きてそこ
で死んだ。この故事をひとびとは町の名前にしてSurabuayaと呼ぶようになり、それが訛
ってSurabayaに変化した。

しかしsuraはサメでなくて平和安寧の意味であり、bhayaはbahayaのことだと主張するひ
とびとがいて、危険から免れた平和な町という意味を述べている言葉だと解説しているも
のもある。


1293年5月31日になっているスラバヤの創設記念日は、ラデン ウィジョヨが率い
るモジョパヒッ軍がウジュンガルで元の軍勢を海に追い落として勝利を達成したできごと
に由来している。カリマスの河口にあるウジュンガルはモジョパヒッ王国にとって海に出
る大門に当たっていた。

サメは勇気を表し、ワニは危険を意味した。サメとワニは海と陸地の対立を示しており、
sura ing bhayaは危険を恐れない勇気を指している。それがスラバヤという地名の由来だ
というのがこの創設記念日に関連付けた説だ。

ジャワ人の発音では、suraはスロ、buayaはブウォヨと聞こえる。スラバヤへ行って地元
民の発音を聞けば、みんなスロボヨと言っているのだ。ボヨ→ブウォヨ→ブアヤという連
想は、スラバヤ市のシンボルマークを知らなければ多分なかなか思い浮かばないだろうと
いう気がする。[ 続く ]