「大郵便道路(112)」(2025年05月24日) スラバヤの創設記念日は植民地時代に東インド政庁がスラバヤを1906年4月1日にへ メンテに定めたことを根拠にして、植民地時代はもとより、1970年代までその日に祝 賀式典が行われていた。しかしそのあり方はおかしいという意見が強まり、独立インドネ シアにふさわしいスラバヤ市の創設記念日に変更することが1973年に合意された。 候補として挙がったものの中にまず、1294年9月11日にモジョパヒッ大王ラデン ウィジョヨがクダドゥ村の統治者と村民に、元の軍勢と戦って功績が大きかったことを褒 賞した故事があった。 次いでトロウラン第1碑文の日付である1358年7月7日、続いてジウ碑文を根拠にす る1486年11月3日。そしてウジュンガルから元の軍勢を追い払った1293年5月 31日。スラバヤの市議会と市庁は勇ましい大勝利の日をスラバヤ創設記念日に決定した のである。 11世紀ごろからウジュンガルという名前で知られていたこの大きな港町は、15世紀の モジョパヒッ王国崩壊のあと、スラバヤと名を変えた。モジョパヒッ王国が建国される前 にシゴサリ王国を滅ぼしたクディリ王ジョヨカッワンは、元軍によってこの町の牢獄に幽 閉されたとはいえ、幽囚の身でかれはジャワ語文芸作品Wukir Polamanを著した。残念な ことに、その作品は後世に伝わらなかった。 負け戦のために元の軍勢がジャワ島から撤退する際に、元軍はジョヨカッワンを処刑して から船を発進させた。ジョヨカッワンを主筋のシゴサリに謀反した配下の者という目で見 てはなるまい。元々ジャワの王権を握っていたクディリ王国から覇権を奪って支配下に置 いたのがシゴサリ王国だったのだから。 しかし1899年にスラバヤで生まれた文化人GH フォン ファーバーはシゴサリのクル トヌゴロ王が1275年にスラバヤを創設したのではないかと述べている。その根拠とし て、1270年に起こったクムルハンの反乱を鎮圧したシゴサリ軍部隊の兵士たちに新し い居住地を与えるために王がかれらをスラバヤに住まわせたことをフォン ファーバーは 取り上げている。 15世紀にジャワ島のイスラム化運動が勃興した初期のころ、ワリソゴの先駆者のひとり スナン アンペルがスラバヤのアンベル地区にプサントレンを開いてモスクを建てた。1 530年にスラバヤはドゥマッ王国に随順する地方のひとつになった。 ドゥマッが崩壊してパジャンに王権が移され、マタラムにジャワ島の覇者になる野望が燃 え上がって、スラバヤはマタラムの征服目標の上位に置かれた。王国の開祖パヌンバハン セノパティが1598年に、パヌンバハン セド イン クラピヤッが1610年に、そし てスルタン アグンが1614年にスラバヤを攻めた。 1620年のVOCの記録にスラバヤの描写がある。スラバヤは豊かな都市国家で強い勢 力を誇り、37キロに及ぶ領土の外周は濠で囲まれ、大砲が防衛力を誇示している。マタ ラムの攻撃に対抗する兵力は3万人だ。 スラバヤがジャワ島東部北岸地域最大の商港になったのは、内陸部から下って来た大型河 川がそこに河口を得てデルタ地帯を作っていったからだろう。海岸部で行われる島嶼間交 易はこの商港を仲介して内陸部とつながった。長い歴史の中でスラバヤも大きいスパイス 交易の港になったことがある。商港スラバヤはアジア大陸部によく見られる、城壁に囲ま れた大都市だった。しかしその城壁の主目的は海を渡ってやってくる外敵に備えるためで なくて、内陸部からやってくる敵に対する防衛設備だったのだ。 国際商港には商品だけでなく文化も流れ込んでくる。プラムディヤは政治犯時代に知り合 った音楽家スブロントKアッモジョが物語ったジャワガムラン音階のpelogについて紹介 している。ペロッ音階は小アジアのフリギア教会に由来するものがスラバヤに伝えられた のであり、その元々の形はマドゥラに遺されているだけで、ジャワ島の他地方では大なり 小なり変形されて現在に至った。プラムディヤは更にスラバヤの歴史について、次のよう なコメントを書いている。[ 続く ]