「大郵便道路(113)」(2025年05月25日) ポルトガルとスペインが東南アジアの制海権を握ってアジアの商船、中でもイスラム商船 が行っている通商を妨害し、海上交通を独占支配する動きを展開したことでスラバヤの発 展は陰り始めた。そのとどめを刺したのがマタラム王国のスルタン アグンだった。16 25年に9万人という大兵力を注ぎこんでマタラム軍は苦戦の末にスラバヤを征服し、マ タラムの属領にした。そのころ、スラバヤの総人口はマタラム軍の総兵力より少し多いく らいだったそうだ。 マタラム軍はスラバヤの城壁を抜くことができず、スラバヤと内陸部の通商路になってい る大小の河川に毒を流してスラバヤ住民を全滅させる戦術を使った。毒と言っても、さま ざまな死骸を川に投げ込んで水を汚染させる方法であり、マタラムの大軍は町を包囲して 外界との交通を遮断しただけだった。その長期戦で何万人もいたスラバヤ住民は1千人に まで減少した。 スラバヤの領主であるアディパティは降伏し、一緒に戦ってきた有能な息子パゲラン プ キッをマタラム王宮に人質として差し出した。そのパゲラン プキッがマタラム王宮に文 化を注入した。東ジャワの文学を中部ジャワにもたらし、ペロッ音階を王宮のガムラン音 楽に加えた。 一方、国際世界と縁の薄い内陸部の王が抱いた地域覇権への野望の前に屈したスラバヤは、 ヌサンタラの通商センターの座から転落し、それどころか国際通商の要港でもなくなった。 農業世界である内陸国家にとって、海洋文化の基本に置かれている進取の精神や新知識の 摂取は毒以外のなにものでもなかったにちがいあるまい。 パゲラン プキッも故郷のスラバヤと同じ運命をたどった。かれとかれの家族の全員が、 つまらない咎のためにマタラム王宮で皆殺しにされたのだ。その処刑の命令はスルタンア グンを後継したアマンクラッ1世が出したものだった。このマタラム第4代の国王は、自 分に反対する王宮のひとびとを一家全員連座させて死刑に処し、その数5〜6千人にのぼ ったと言われている殺人狂だ。かれに煙たがられたパゲラン プキッもその被害者のひと りになった。中部ジャワの文明化はそのときに終わった。 1602年に北の果てにあるオランダはVOCを設立し、ヌサンタラの諸地方を征服しな がら一大世界帝国を築き上げた。1625年にヌサンタラでもっとも先進的な都市国家だ ったスラバヤは後進的な内陸部の王の野望のために破壊された。ヌサンタラの歴史が持っ たイロニーのひとつがこれだ。プラムディヤはそう書いている。 マタラムの手からVOCの統治下に落とされたスラバヤは、徐々に昔の姿を回復し始めた。 ただし、独立した自治都市国家という点だけはもちろん例外にならざるをえない。VOC の監督下にアディパティが統治するスラバヤはその後も何度か戦争の嵐に見舞われている。 そして最終的にオランダ人レシデンが統治する形態に変化し、グルシッ・シドアルジョ・ モジョクルト・ジョンバンを管下に収めるスラバヤレシデン統治区の首府になった。 最初、グルシッとシドアルジョはスラバヤ県の中に含められており、後になってスラバヤ 県から分離した。 スラバヤの街は1906年にへメンテの制定がなされ、1926年に東ジャワ州の州都に 指定された。こうしてスラバヤは通商と航海のセンター並びに工業の町として昔の栄光を よみがえらせた植民地の港町という歴史をたどるようになる。 植民地政庁がこの町に海軍基地を置いたのは、航海のセンターという性格が強く影響した せいだろう。確かにヌサンタラ海域の中心に近いスラバヤの方が地理的にふさわしい印象 をより強く感じさせている。 20世紀が始まるまで、スラバヤの町の政治と経済の活動センターというのはジュンバタ ンメラ地区になっていた。そしてその周辺に人種別の居住地区が作られていった。ヨーロ ッパ人居住地区はレシデン官邸の西側、プチナン地区はクンバンジュプン通り一帯、ムラ ユ人アラブ人居住地区は少し北側のアンペル地区という具合に。[ 続く ]