「続・借用語の作り方」(2025年05月27日)

ライター: インドネシア大学文化学部教官、カシヤント・サストロディノモ
ソース: 2011年2月18日付けコンパス紙 "-teit, -tit, -tet, -tas" 

短編小説Bawukの冒頭でウマル・カヤムはトアン スルヨなる人物を紹介した。その人物は
物語の主人公バウッの父親で、植民地時代のonderdistricthoofd(今のcamat)の職を務め
ていた。当時の行政官として当たり前のことになっている、soosでカードゲームをしたり
ビリヤードを突くような西洋風ライフスタイルに染まって生きることから逃れるすべをト
アン スルヨは持たなかった。ソオスとはsocieteitの略語であり、当時のオランダ東イン
ドのプリブミエリートがヨーロッパ人と交際する社交クラブを指す言葉だ。

ソシエテイトの語尾-teitは英語のsocietyの語尾-tyと同じだ。よく似た言葉に聞こえる
にもかかわらずその語義は違っていて、ソシエテイトに対応する英語はclub houseなのだ。
とは言うものの、ソシエテイトもソサエティも明らかに社交活動に関連している。

Perkembangan Peradaban Priyayiと題するサルトノ・カルトディルジョのグループが行っ
た研究によればソオスという言葉は、世紀の変わり目に登場した、行政官僚の役職にある
プリアイや植民地教育を受けた高知識層が形成するhomines novi族(新人類)をシンボラ
イズするもののひとつだった。


バタヴィアで最初に設けられたソオスの嚆矢はDe Harmonieであり、エリート層のたむろ
するクラブとしてアジア最古のものだった。会議場としての機能のほかに、公共空間・演
劇や演舞場・パーティ会場などの機能をも担った。植民地行政の観点からは、プリブミ官
僚がコロニアルボスに対してどれほどの忠誠心を持っているのかを測る物差しとしても使
われた。レシデンがソオスの大広間で催す集まりの招待状にプリブミ官僚のだれがどれほ
ど熱心に出席するかということが、部下が上司に対して抱く忠誠心あるいは反抗心のバロ
メータにされたのである。

インドネシアが独立したら、ソオスも退潮を迎えた。たくさんの語彙が綴りの問題なしに
インドネシア語に摂りこまれた一方で、オランダ語の名称は社会から排除されていった。
オランダ語のインドネシア語化では、たとえばproclamatieがproklamasiになるような、
インドネシア語発音表記法に従って綴りが書かれるように変更された。

しかしsocieteitなどの語尾-teitの扱いには苦慮した。ましてや、インドネシア共和国独
立宣言から間もなく1946年に、Nooduniversiteit van Indonesie(インドネシア臨時
大学)という名で新大学が設立され、1947年にはUniversiteit van Indonesieに名前
が変わり、それがUniversiteit Indonesieになってから最終的にUniversitas Indonesia
に確定されたのである。

1949年に開かれたガジャマダ大学には-teitの変形が試みられ、はじめはUniversitit 
Gadjah Madaという名称が付けられた。この大学は当初、理学系3学部と非理学系1学部
でスタートした。学部を示す言葉もfakultitが使われた。

そんな混乱状態を目の当たりにして当時の教育指導文化大臣メステル ムハマッ・ヤミン
は-teitや-titの代わりにヨーロッパ語の源流であるラテン語から拾った-tasを使うこと
を決めた。こうしてuniversitasやfakultasという語形が標準のものになったのである。

-teitの形式を1980年代ごろまで使い続けていたのは多分クンチャロニンラくらいの
ものだろう。ただしかれは論説集Kebudayaan, Mentalitet, Pembangunanの中に見られる
ような-tetの形に変えて使った。この著名な人類学者は機会があるたびに、aktivitet, 
identitet, minoritetなどの形にするのを好んだ。

わたしが本欄で述べたいのは、自分たちの母語に入り込んできた外国語を飼いならして使
う完ぺきな権利と自由をわれわれ自身が持っているということだ。ところがマーケットの
ために、あるいは何でそうしているのかよくわからないにもかかわらず外国語に平伏して
いるひとびとの姿がしばしば見られるのである。