「大郵便道路(115)」(2025年05月27日)

スラバヤの商業センター地区に遊興施設がオープンするようになるのはものごとの順序通
りであり、日本からやってきた日本人がハンデルストラート界隈に割烹料理店を開き、日
本人芸者を置いて日本風のサービスを客に提供した。客層は日本人が多かったものの、西
洋人も、そして富裕なプリブミもやってきて、日本酒を飲み、芸者が演じる太鼓三味線や
歌舞のエキゾチシズムを味わった。さらに最終コースとして、別料金を払って泊まり込む
サービスも用意されていて、畳の上に敷かれた布団で寝るのだが、とは言ってもひとり寝
はしない。芸者が娼婦であるという実相はクンバンジュプン界隈にいるプリブミたちにと
って真実であり、常識だったのだ。

開国した日本から貧しい農漁村の娘たちがからゆきさんになって東南アジアにやってきた。
売り飛ばされたという表現のほうが適切だと主張する声もある。19世紀末ごろには、オ
ランダ東インドの主要都市の在留日本人のほとんどが女性からゆきさんだったそうだ。そ
の状態は国辱ものだという批判が叫ばれるようになって、大日本政府は領事館を各地に開
き、からゆきさんビジネスをもっと正当な経済活動に移す指導を開始した。スラバヤに日
本領事館が開設されたのは1920年だった。

娼婦であるからゆきさんとクンバンジュプンの日本人芸者が国辱という観念の中でどうい
う関わり合いになっているのか、わたしにはよくわからない。インドネシアの都市部に日
本料理店を開き、日本で当時普通に行われていた芸者サービスを盛り込んで事業の成功を
期したのがクンバンジュプンのケースであって、娼館を開いてセックスビジネスを事業と
して行ったというものではないのだから。

日本人芸者が有名になってクンバンジュプンの名前をたまわったのは1930年代だった
というイ_ア語情報がある。であるなら何人いたのかよくわからないが、その芸者たちが
クンバンジュプンという地名の由来になったわけだ。そうであれば、この地名の歴史はそ
う古いものでもないことになる。


現代のクンバンジュプンはスラバヤの商業センターのみならず、東ジャワ州の経済センタ
ーにもなっている。州内の金銭流通量の6〜7割がここに集まってくると語る地元ビジネ
スマンもいる。1メートルが数千ルピアから1百万ルピアに至るまでの布がそこで売られ
ている。小物はボタンからニンニクに至るまで、釘や針金から大型発電機や専門機器に至
るまで、クンバンジュプンで買うことができる。

商業センター、中でも卸売センターとしてのクンバンジュプンの黄金時代は1950〜7
0年代がピークだった。そのころ、ジャカルタのグロドッをはるかにしのぐ勢いがクンバ
ンジュプンにあった。ところが首都の名声に関わると思ったのか、ジャカルタがマンガド
ゥアを第二のグロドッに育成し、また各地区に卸売りセンターを設けるような方針を進め
たためにクンバンジュプンは圧倒されるようになった、とスラバヤの財界リーダーのひと
りは語っている。

確かにジャカルタでは、マクロやゴロなどのモダン大型卸売り店がオープンし、ジャカル
タの各地区にはITCと銘打った巨大卸売りセンタービルが建てられた。その当時WTC
という国際機関がジャカルタに事務所を開いていて、WTCは固有名称になっていたので
ITC(International Trade Center)という言葉が選択されたのだという解説をメディア
で読んだ記憶がある。ITCのTradeという言葉は卸売りを意味しており、ビルの中は商
品で満ち溢れ、ショッピングセンターやモールにあるような消費者への娯楽提供スペース
はミニマイズされていた。同じ品物を複数個買うと単価が安くなるのが普通だった。

だがジャカルタとスラバヤの大きな違いは、スラバヤがカリマンタン・スラウェシ・バリ
・パプアなどのインドネシア東部地方をビジネスの後背地として持っていた点にある。ク
ンバンジュプンは東ジャワばかりか、それよりはるかに大きなエリアを市場として持って
いたということであり、ジャカルタより商業規模が大きくなるのはむしろ当然のことだっ
たにちがいあるまい。[ 続く ]